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  本日在釜
                           和泉さとこ                   
                                                                                   平成19年6月14日付け 島根日日新聞掲載

 朝からすっきりとした青空が両手を広げ、晩春の気持ちの良い一日を予感させてくれる。
「お茶教室の仲間が、自分の家で在釜をやるそうだから行ってみよう。勉強になるよ」
 友人から誘いがかかった。
 在釜とは釜を掛けて茶席の用意を知らせる言葉だ。在釜の案内が出ていれば「どうぞお入り下さい。一服差し上げます」と言う気持ちを知らせる印になる。
 お茶を習い初めて日も浅く躊躇する気持ちもあったが、好奇心がその気持ちを押さえ込み、行くことにした。
 市街を抜けると、山手に住宅が並ぶ一角。門構えの入り口に、「在釜」と墨で書かれた和紙が貼ってある。
 門をくぐり、玄関に向かう。露地脇の木々が、若芽を膨らませ出迎えてくれる。植え込みの先には、山の傾斜を生かし、もみじ、ツツジ等々、自然の風景を連れてきたような庭が広がっている。もう茶席が始まっているようだ。 
 着物姿の方に混じり、季節を先取りした洋服の裾も軽そうに、お運びをする若い方の姿は心安く思える。きびしい約束事のないお茶席らしく、外国人の方の姿も見える。時々席中の楽しげな会話が風に乗って届く。
 待合いには友人の知り合いがすでに詰め、挨拶が始まっている。友人の背に隠れるようにしていると、なかの一人に「お久しぶりですね」と声をかけて頂く。気軽に楽しむ会という誘いの言葉に、カジュアルな洋服に恐縮したようにしていると、「私は洋服がないから、着物よ」と、笑顔を向けてくれる。少し肩の力が抜けたような気がした。
 案内されて庭に面した座敷に進む。障子をとおした春陽の穏やかな気配が準備されていた。 
 点心が運ばれた。蘇芳色の器に、豆ご飯、ワラビ、蕗、さわらの焼き物、刺身等、心づくしがきれいに盛りつけられてどれも美味しい。煮物碗はタケノコしんじょだ。大根と人参で作られた桜の花びらが添えてある。名残の春をつまみそっと口に運ぶ。お酒も勧められる。車だからと遠慮したら、「では、こちらをどうぞ」と冷たいお茶を入れた燗鍋を差された。感謝して一献いただく。亭主の方が忍びやかに部屋に入り、明かり床の障子を開けられた。
 裏庭を守るように大木になったもみじの木。その葉からこぼれ落ちた陽が、若葉風とじゃれ合うようにツツジの植え込を、きらきらさせながら走る回っている。勢い付いたこぼれ陽が三、四個座敷に転がり込んできた。
 新緑の匂いに誘われるように、庭に設えられた濃茶席の毛氈に座る。
 炉は庭の地面に掘られている。亭主のアイデアで土びんを釜に見立てて据えつけてある。炉縁を、よくよく見れば瓦の組み合わせではないか。
「楽しい会だね」
 友人が楽しむポイントを教えてくれる。植え込みや芽吹きの木々に囲まれた庭は――広い野原に身置いている――そんな気にさせてくれる。
 緊張して出かけた在釜は、亭主の遊び心が私の好奇心をまさぐり、十分楽しませてもらう。
 濃茶は旅箪笥のお手前でいただく。陽も高くなり背中いっぱいに太陽を受けとろりとした気持ちになってくる。
 程良く練り込められた濃茶は口の中で甘さが広がり、しゃんとした気持ちになる。隣の二人に「初めてですので宜しくお願いします」と挨拶された。「いえ……私も初めてなんです」と、気安く返事を交わせたのもお茶席を楽しめた一つかも知れない。
 薄茶席は立礼の棚で、椅子でのお手前になっている。お心入れの道具を拝見しながら、二服もいただいた。
「沢山の、お心くばりを頂いてありがとうございました。良い一日を楽しませて頂きまして、お疲れになりましたでしょ」
 労うように挨拶する友人。親しくしている人よ≠ニ言っていたのに、言葉遣いも改めて、お礼を言う姿は何かを教えてくれているようだ。
 子供をおぶった近所の方らしい二人連れが入ってこられた。亭主の方は、手を取るようにして席中に案内し、椅子を準備される。和やかな日常の匂いがする。とかく堅苦しく思われるお茶席も囲いを取り払えば、こんな楽しみ方もできるのだ。
 お茶会の余韻を引きずりながら家に帰ると、木戸口まで賑やかな声が聞こえてくる。母のお茶のみ友達四人の笑い声だ。どうしてもコタツを放せない者同士が背を丸めて向き合っていた。居間では私が作り置きしておいた茶口の鉢が並び、我が家のお茶会は盛り上がっている。
「声かけて貰ったので、留守に上がり込んで、またご馳走になっているよ」
 居間を覗けば、いつものように私の挨拶より先に声がかかる。
こんな時「いえ、何もありませんで……」と、返すのが田舎のルールだ。
「近頃、草が競争するように出てきて大変だわ。いくら手が有っても足りないね」
隣のおばさんは、膝が痛くて正座が出来ない。座っている姿から、背中がまた丸くなった気がする。
「ここの綺麗な庭を眺めさせてもらって、その上にご馳走にもなって、草取りも大変なのに感心するわ」
 自分の愚痴と一緒に、おばさんは誉める事も忘れない。
 障子を開け放した居間からは、裏庭が見える。庭先きの都忘れは、雑草を押しのけ背伸びするように咲いている。
「過ぎた褒め方は、当たり障りがあるが!」
 母の隣に座ろうとしたら、対面のおばさんからきつい一撃が来た。ほんの一息ほどの沈黙があり、コタツ布団が飛びはねるぐらいの笑い声が起きた。
 これが我が家の、本日在釜暮らしか……。

◇作品を読んで

「三古都」という特別な名称が付けられているのは、京都、金沢、松江である。作品に書かれているように、いずれも「在釜」と書かれた半紙や小裂が、軒先で揺れていそうな町である。午前と午後のひと刻、茶を点てて語らう。生活の中に、お茶が入り込んでいる。だが、「在釜」となると、現代ではなかなかに難しかろう。どなたでもご自由にお入りくださいと、見知らぬ人に門を開くのだから。
 誰にでもお茶を点ててもてなすことはできないだろうかという願いが、タイトルに込められている。
 茶席を終えて家に帰った作者は、我が家に「在釜」があったことを知る。前段の茶席の話、最後の我が家に来ていた茶飲み友達と作品のタイトルがうまくかみ合っている。