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  愛妻家
                           篠原紗代                   
                                                                                   平成19年5月10日付け 島根日日新聞掲載

堤隆康は機械に弱い、五十代のエリートサラリーマンである。
 十年くらい前は、仕事をするうえでパソコンを必要としなかった。文書をパソコンで作らなければければならなくなった頃には、秘書がついていた。おぼつかない指を動かして、かな≠フキーをひとつひとつ探しながら打っても、たいして仕事に差し障りがない。
 秘書や若い部下に操作の仕方を訊くと、
「私がやります」
 そう言って、パソコン仕事をやってくれる。隆康がするよりずっと早く片付く。彼等の親切が嬉しい。本心は、教えるのが面倒なだけなのだが、隆康は気付かない。
 仕事の都合上、携帯電話は必需品だ。十年以上前から持っているのだが、通話にしか使わないし、メールを受け取っても電話をかけて返事をする。マナーモード≠押すことと、電話帳≠フ管理ができれば、困ることはないのだ。
 一週間前、取引先の依頼で、携帯電話を買い換えた。これで三台目だ。機種が変わると、操作に頭を悩ます。やっと少しメールを打てるようになったので、あまり乗り気ではなかったのだが、仕方がない。恥ずかしくて機械音痴≠セなんて言えないし、プライドが許さない。
 新しい携帯電話には、カメラやテレビ電話機能が付いている。
「お孫さんの顔を見ながら、電話でやりとりできますよ」
 店の人にそう言って勧められた。そのほか、いろいろ便利な機能があるらしい。
「任せる」
 一言、そう言って適当に選んでもらったのだ。
 帰宅して、新しい携帯電話を娘の真綾に自慢した。
「お父さん、ふざけないでよ。私は、まだ二十歳の学生です」
 呆れた顔で真綾が応えた。
「孫ができるまでに練習しておくのさ」
「しばらく予定はないよ。それとも結婚前に妊娠してもいいのかしら?」
「そりゃ、いかん」
 苦笑しながら、真綾は自分のものよりハイグレードだと感心して、さまざまな機能を試した。
「ついでに、着メロを設定してくれ」
「いいよ」
 内蔵されているメロディーを流して、隆康の気に入ったものを選び、着信音、着メール音を設定してくれた。
 父娘の会話に入り込めない隆康の妻が、周りをうろついていた。
 突然、真綾が母親に携帯電話を向けた。
「お母さん、こっちむいて」
「はい」
「一、足す、一は?」
「二」
カシャッ
 隆康は、真綾が妻の写真を撮るのを、微笑みながら眺めていた。
「はい、これで使えるよ」
「おっ、ありがとう」
 隆康が携帯電話の蓋を開けると、ニッ≠ニ笑った妻の顔がアップで現れた。真綾は、待ち受け画面≠ノ妻の写真を設定していたのだ。頬と鼻が突き出て見える。化粧気はなく、髪もぼさぼさだ。
「これはなんだ」
「もちろん、お母さん」
「消してくれ」
 間髪を入れず、妻が言った。
「私の顔を見るのが嫌なのですか」
「そうではないけど、人に見られるじゃないか」
「人に見られたら困るのですか」
「恥ずかしいじゃないか」
「私のことを、恥ずかしいと思うのですか」
「違う……」
 隆康が妻と言い合っている間に、真綾はさっさと風呂に入ってしまった。操作の仕方がわからないので、隆康はどうすることもできない。
 あくる朝、真綾は忙しそうに動きまわって、出かけて行った。
 夕方、真綾は帰って来たが、隆康の傍には寄りつかない。顔を会わせても、フフッ≠ニ笑ってその場を離れる。
 携帯電話の蓋を開けるたびに、妻のニッ≠ニ笑った顔が現れる。
 会社では、他の社員に見られないよう、こっそり開けていた。
「堤さん、携帯、変えたんですね」
 ある日、部下のひとりが気付いた。今までの携帯電話は黒だったが、シルバーグレーなのだ。
「えっ、うん」
「どんなのですか」
 部下が、後ろから覗き込んだ。
「来るな! 寄るな! 見るな!」
 遅かった。
 待ち受け画面を見られてしまった。ぼさぼさ髪で超アップの妻が、ニッ≠ニ笑っている。
 部下の微笑んでいた顔の筋肉が引きつった。見てはいけないものを見てしまった、という表情だ。
「奥さんですか?」
「他に誰がいるか」
 やけっぱちである。部下は、優しくフォローしてくれた。
「愛妻家ですねぇ」
 部署の皆がいっせいに隆康を見た。携帯電話を開けるたびに妻の顔を見る隆康は、『愛妻家』という評判を得た。

◇作品を読んで

携帯電話が日本で最初に発売されたのは、昭和六十二年である。平成六年あたりから通信会社の競争が激しくなったこともあって広く使われるようになり、便利な道具になった。
 作者はそれを逆手に取り、携帯電話を使いこなせない五十代の男を登場させて、戸惑う姿と、愛妻家と呼ばれるようになった堤隆康のペーソス溢れる情景を描き出した。
 堤隆康は、去年の一月、この欄の『禁煙闘争』という作品に登場した人物だ。煙草を止めたいと思うのだが、愛煙家の常で、なかなか禁煙することができなかったという話だった。作者がどうにでも料理できる人物として、これからも出番があるかもしれない。作品の一つの書き方でもある。