恥しらずなおばさん
篠原紗代
平成19年4月12日付け 島根日日新聞掲載
マナー違反をやってしまった。 ひとりで出雲から米子へ行った帰りのできごとである。JR米子駅ホームで、特急電車を待っていた。 私は専用の携帯電話を持っておらず、その日は、娘から借りていた。扱いには、かなり不慣れである。片手で掛けることができない。左手に持って、右手の中指でボタンを押す。無様な掛け方だと言われているが、どうしようもない。着信時は振動するようにしてもらった。マナーモード設定を忘れて、とんでもないときに呼び出し音が鳴っては困るからだ。周りに迷惑をかけたくない。マナーモードにしようとして、設定の仕方を思い出せなくても、やはり困る。何も操作しないでいて、周りに迷惑をかけずに着信がわかるのは振動≠ネのだ。 出雲市駅まで迎えに来てほしくて、夫に電話を掛けた。 記憶させてある夫の番号を、やっと探し出して掛けた。だが、数回のコール音のあと、通じたなと思うとすぐ切れる。何度も繰り返したが同じだ。夫の携帯電話には、娘の名前が表示されているはずである。違うところへ掛けたのだろうか。掛け方が間違っていたのだろうか。 今度は、普通に電話を掛ける要領で、夫の番号を押してみる。結果は同じだった。いつでも空で言える夫の携帯番号を、間違えるはずはない。掛けられて困るのなら、夫の側がマナーモードになっているはずだ。伝言≠ウえできない。 まもなく電車が到着する、というアナウンスがあった。 不器用な私は、電車に乗る動作と電話を掛けることを同時にはできない。電車のデッキとホームの間に足を入れてしまいそうである。足をひっかけて転ぶかも知れない。「乗ってから掛けよう」そう思って、携帯電話をコートのポケットにしまった。 電車がホームに入ってきた。 そのとき、携帯電話がぶるぶると震えだした。あわてて取り出してみると、父≠ニ表示されている。夫からだ。こんなときに掛けてこないでと思っても、夫にわかるはずがない。 二つ折りの携帯電話を開いて受話器を取る絵のボタンを押し、耳にあてがう。 ホームに入ってくる電車の轟音で、電話の向こうの声は何も聞こえない。相手は夫なのだから、少々失礼でもかまわない。今の状況、乗る電車の出雲市駅の到着時刻を、携帯電話のマイクに向かってしゃべりまくる。私自身の声さえ聞こえず、何を言っているのかわからなくなってきた。 電車のスピードがかなりゆっくりになる。エンジンやブレーキの大音響に、アナウンスも加わって、音の大海原にいる気分だ。携帯電話に喚きながら、電車に沿って乗降扉の方へ歩く。 電車が止まった。 言いたいことは言ったつもりでスイッチを切って、携帯電話をポケットにしまう。ちょうど、乗降扉の前にいた。 ひょいと左を見ると、人が並んでいる。 「しまった」 自由席車両の乗車位置には、行列ができていた。なんと、私は列の先頭の前に立っていたのだ。あわてて右後ろへ飛びのく。降りる乗客が全て出ても、先頭の男性は乗ろうとしない。問いかけるように顔を見たが、無表情である。譲り合っている時間はない。やむをえず、頭を下げて、一番先に乗車した。 車内は空いていて、後から乗る全員が座れると判断したので、手近な席に着いた。乗ってくる人が、皆、私を睨んでいるような気がした。蔑んでいるかも知れない。恥知らずな行為をしたのだから、当然だ。顔を見られたくなくて、うつむいていた。 二人掛けの座席の外側に座って、発車するまで荷物を膝の上に置いたままでいた。いつもやっているマナーだ。隣には誰も座らなかった。 電車が動きだしてから、メールを送ろうとした。車内で電話を掛けるのは、マナー違反だからだ。ところが、娘の携帯電話に慣れていない私は、やり方がわからない。メール画面は出たものの、文字を入力できないのだ。 通路を挟んで隣の席に若い男性がいたので、訊いてみようかとも思ったが出来なかった。もしかしたら、彼は米子駅から乗車したかも知れない。 恥知らずなおばさん≠ヘ恥の上塗りをしたくなかった。 普段、列車に乗るとき、並ばない人を見ると腹が立つ。適当に乗る≠フはマナー違反≠セと思っている。 うっかりだったにせよ、許せない行為を私自身がやってしまった。周りに知人は誰もいなかったが、自分に対して恥ずかしい。 出雲市駅に夫は迎えに来ておらず、自力で帰宅した。 夫は、残業があり、かなりおそく帰ってきた。私が電話を掛けたときは、まだ勤務中だったのだ。私が娘から携帯電話を借りたことさえ知らなかった。 娘≠ゥらの着信が何度もあり、掛けなおすとガーガー♂ケが聞こえるだけだった。仕事に行っているはずの娘が、事件に巻き込まれたのではないか、と心配していたそうだ。 |
◇作品を読んで
思わぬことで他人に迷惑をかけると、気になるものである。作者はわざとではなかったが、行列に割り込んだ形になった。電車に乗っても、気まずさは続く。そのあたりの情景がうまく書かれている。 書かれた文章はその中に、一箇所でも読み手の印象に残るところや言葉があれば、全体が生き生きとしてくる。 体験をありのままに書くことは大事であり、同時に、こう思った、こう感じたと言わなければ、伝えたいことが明確にならないのである。 文章は、書き手ではない他の人が読むものであり、通じなければ意味がない。 作者は、月ごとに少なくとも一作品を書くと決めている。そのエネルギーと集中する力が、いい文章にしているのではないだろうか。 |