TOPページにもどる   ウエブ青藍トップにもどる

  昔のあそび
                        津井輝子                   
                                                                                   平成19年1月25日付け 島根日日新聞掲載

 昔といっても、一九五五年生まれのわたしのことだから、それほど古くはない。(十分に昔だよ、とツッコミが入る?)
 そうか。いつの間にか、五十年も経っている。半世紀だから、昔、昔の話になるのか。
 いま、昭和三十年代がブームだと聞くと、リアルタイムで過ごしたわたしとしては、ちょっとうれしい。思い出を語りたくなった。
 一番古い記憶が何才の頃か定かでないが、メカ好きの叔父が組み立てたという、当時まだめずらしいテレビが身近にあった。
 ただし、番組は少なく、放送局はNHKと民放がひとつあるだけだ。昼間はニュースや大人向けのおもしろくもないものばかりで、そのうえテストパターンがたびたび入る。テレビ画面を調整するための図(?)だったらしいが、それを知ったのはずっと後だ。
 NHKの「おかあさんといっしょ」が始まる時間までが、実に待ち遠しかった。それも、相撲場所が始まるとチャンネルは大人たちに握られ、三時から六時まで独占されてしまうので見られない。取り組みが進むと、近所のおじさん、おばさんたちで座敷はいっぱいになった。
 そんなわけで、雨の日以外は戸外で遊んだ。フラフープが得意だったとは、後に親から聞いたが、あまり覚えていない。
 毎日のようにゴム跳びをしていたことは、鮮明に思い出すことができる。輪ゴムを長くつないで、ふたりが両端を持ち、ひとりが真ん中を跳ぶ。当時の女の子の定番ではなかったかと思う。膝から頭くらいまで徐々に高さを上げていく。それの繰り返しで単純この上ない。それで何時間でも遊べた。友だちがいないときでも、木につなげてひとりで跳んだ。スカートの裾をパンツに挟んだりして。
 少し学年が進むと、ドッジボールで遊ぶようになる。友だちのひとりがボールを買ってもらったからだ。場所は主に駅前広場。バスの発着場も近くにあったので、いま考えると随分危険でもあるし、邪魔だったと思えるが、注意されたことは一度もなかった。そういう時代だったのかな、としか言いようがない。
 棒切れで地面に線を引き、敵味方に分かれて日が暮れるまで遊んだ。ボールがないときは、それ目当てに普段遊んだこともないような子を誘ったりして。
 駅の裏に、ベニヤ工場の貯水池があった。ラワン材の大木を保管するための巨大なプールだ。ぷかぷかと浮かぶ木の上を飛び移るのはスリルがあって、これもまたおもしろかった。
 本当にどれをとっても、お金のかからない遊びばかりだ。
 天候の悪い日は、折り紙やお人形さんごっこをして過ごした。あれはあれで楽しかったと思う。初めて鶴を折ったときのことも覚えている。わたしより何でも勝っていた学級委員の子から教えてもらった。それまで祖母から聞いていたのと少し違っていて、うまくできた。
 どこの家でも、きれいな包装紙は捨てずにとっておかれ、「鶴」や「やっこさん」「だまし船」に形を変えた。「だまし船」に騙されていたのは、いつ頃までだったろう。目をつむっている間に、つかんでいた場所が変わっているのが不思議でしようがなかった。
 お人形さんで思い出すのは、大失敗して怒られたことだ。
 あるとき、お人形の金髪を真っ直ぐにしようとアイロンをかけ、溶かしてしまった。本当に驚いた。あの頃の人形は丸い頭の円周だけに毛が植えてあるから、ポニーテールにしていなければ、はげが丸見えだ。かわいそうに金髪をなくしたお人形さんは、どんな服を着せても似合わなくなってしまった。
「リカちゃん人形」が発売されるずっとずっと前のことだ。リカちゃんが一九六七年生まれだから、わたし自身遊んだ覚えがない。はげ頭の人形の後で買ってもらったのは、「サンデー人形」だった。リカちゃんに負けず劣らずのナイスバディで、金髪もふさふさ。親しい友だちもみんな持っていたので、五・六年生になるまで飽くことなく遊んだ。
 テレビでは外国ドラマが盛んで、よく見ていたものに「ルーシーショー」「カレン」「パティ・デュークショー」「奥様は魔女」がある。どれをとっても生活がきらびやかで憧れた。
 食料品がぎっしり詰まっていた大型冷蔵庫。ドレスや毛皮が整然と並んだクローゼット。広いお風呂場やふかふかのベッド。
 お菓子の空き箱で作ったサンデーちゃんの部屋は、アメリカで埋まっていった。夢は限りなく膨らむ。
 けれどサンデーちゃんは姿を消した。テレビ画面のテストパターンがカラーパターンに変わっていったように、進化したリカちゃんにその座を奪われた。サンデーちゃんを覚えている人が、どれくらいいるやら。
 思い出話は尽きそうにない。

◇作品を読んで

昭和三十年、観音開きの四つのドアを持つトヨペットクラウンが走り出し、マンボスタイルやポロシャツが流行した。電気釜が店頭に並び、家庭電化時代がスタートした年である。敗戦から奇跡の復興を遂げようとするために、人々は懸命に働く「戦後」と呼ばれた頃だった。
 作者の年代以降の人には、懐かしさを感じさせる作品で、豊かさのみを追求してきた中で置き忘れてきたものを思い出させてくれる。作品を読む読者のそれぞれが、かつての自分の暮らしに思いを重ねることができれば、作者が書こうとした意図は成功したということになる。
 時折、体言止めを交えた優しい語りかけの文章形式で作品を構成したのは、内容がどうすれば読み手の心を揺さぶることが出来るかと考えてのことだろう。