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  あの頃の小児病棟
                        野津 ツルミ                   
                                                                                     平成18年12月14日・21日付け 島根日日新聞掲載

 秋晴れのある日のことだった。『昔を懐かしむ会』が、三十年近くを経て開催された。
 昭和五十年から五十五年の間に、K病院小児病棟に入院していた子供達、というよりも既に大人になっている彼らの主催である。当時の関係職員と総勢五十余名が集まった。その頃、入院していた子供達は、学童期にあり、腎炎、ネフローゼ、気管支喘息、先天性心疾患などの慢性疾患を持ち、療養と学業の両立のために入院生活を送っていた。
 今では、彼等も四十代の働き盛りとなり、県内外で生活をしている。職員の殆どは近隣に住んでいるものの、当時の担当医M医師は、実家のある東京から駆けつけた。
 自己紹介になり、遅れて着席したA君の迷スピーチに度肝を抜かれてしまった。
 突然、私の名前が飛び出したのだ。当時のA君は、思春期真っ只中であった。どちらかと言うと早熟な方であった。
 ある時、私の白衣の上から猫柄のパンテイが透けて写っていたようだ。それに目を奪われたA君は、「看護婦さん、パンツ見せて?」と言ったらしい。
「A君見せてあげてもいいけど、あんたの病気が悪くなると思うよ。それでもいいの?」
 そう言われて諦めたと言うのだ。    
「エーッ」
 一瞬真っ青……。一斉に皆の視線が私に集中した。慌てて、それは無い無いと手を振り頭を振り、否定のジェスチャーをした。全く記憶に無く、なーんてこと言い出すのよと思った。後で、他の男の子(当時の)も「本当だったらしいよ」と言いにきた。すっかり忘れてしまっていたことである。A君も、久し振りに見る顔に、つい嬉しくなって調子に乗ってしまったと首を竦ませていた。
 A君は年長で入院期間も長く、子供達の兄貴分としてまとめ役も担っていた。五十名近い集団生活の主導権は子供達にあった。年長者は年少者の面倒を見るよう役割が与えられ、それはうまく機能していた。
 小学二年生のO君は『喧嘩太郎』と呼ばれていた。体が小さくチビッ子だったが、負けん気は人一倍強かった。その日も誰かと喧嘩したらしく、
「もうーッ、こんなつまらん所、脱(脱出のこと)しちゃ―けん」
 鼻息荒く喚いている。
 それを聞いた兄貴分のA君は、
「O君よーッ、病院前の大通りは車が多いし、この間も事故があったらしいけん、気イーつけて行けやーッ」
 O君、ちょっと考えて、
「今日は、やっぱり止めとくわ、今度にするわ」と引き返した。A君は真顔でさりげなく言い、チビッ子のO君は威勢良く負けじと突っかかって行く。
 繰り広げられる珍問答が、何とも可笑しく微笑ましくもあり面白かった。大人が躾るよりも子供同士の関わりの中で、身に付くことも多かった。
 O君退院の日。私は配膳室で朝食の準備をしていた。
 O君は、私の周りをウロウロ行ったり来たりしている。退院が嬉しくもあり寂しくもあり、万感の思いを伝えたかったのだろう。可愛らしく、喧嘩好きで小さな巨人のO君は、今どうしているのだろう。
 M医師は、当時より顔色も良く、丸顔が少しばかりふっくらとして元気そうに見えた。東京では、小児科を開業しているという。K病院在職中は、胃を押さえて歩く姿が印象的であった。三十代前半というのに年令よりも老けて見えていた。五十名近い子供達の治療責任は、大きな重圧であり、ストレスもあったであろう。
「病気のために、肉親から離れて暮らす子供達に、他人の私達がしてあげる事にやり過ぎは無いのだから……」
 と、そんなことも言っていた。 
 それを象徴する出来事があった。やむなく人工透析患者第一号となった、Kちゃんという中学二年生の女の子がいた。
 人工透析とは、本来腎臓から排泄されるべき有害物質を、人工的に除去する治療法であり、患者の血管から一定間隔で反復して行う治療である。
 Kちゃんは入院歴も長く、「Kちゃん、Kちゃん」と職員からも可愛がられていた。病状が悪化して個室に入ってからは、他の子供達とは疎遠になっていった。
 その日も、昼食を食べてから、一時過ぎには透析治療に出掛けることになっていた。透析治療は、食事を食べてからでないと受けられなかったのである。私は、食事の摂取状況を見るために部屋を訪れた。
 M医師が居た。午前十時からKちゃんにつきっきりであった。なぜか慌ててKちゃんの腹部に聴診器を当てたように見えた。彼女が望むなら、医師として今出来ることは、傍に居てあげることだけだと言わんばかりの風情であった。Kちゃんが透析をするようになってからは、他の子供達への接触は殆ど無くなった。それまでは、分け隔てなく、どの子にも接してきていたのに。
 医師としての力不足と責任感からなのか、Kちゃんが不憫でならない様子であった。痛いほどその気持ちは理解できた。Kちゃんも、愛深き若きM医師に、自らの病を託すと同時に思いを寄せるのも当然の成り行きであったろう。
 Kちゃんは、まだ昼食に手をつけずグズグズしていた。私はKちゃんに問い掛けた。
「どこか痛いの?」 
「……」 
「透析だから食べよう」 
「……」 
「体調が悪いのに、それどころではないだろう?」 
 傍にいたM医師は、怒りの表情で憤懣やる方ない様子である。私はM医師が、透析前の食事摂取の必要性は十分判っているはずではなかったかとの思いだった。
 詰所に戻ってから、M医師に言った。
「どこか悪いんですか? 透析には行かなくていいんですか?」
 M医師は言う。
「君はKちゃんをどうしたら良いと思ってるのか?」
「透析になっても、他の子供達と交流をすべきではないでしょうか。今後、何年透析を続けるか分からないが、大人になった時、Kちゃんのためになるのか疑問に思います」 
 私が普段考えていたことである。
「どうなるか分からんKちゃんに、そんなむごいこと出来ないだろう? 望む通りにしてやりたいのだ。君とは考え方が違うので、もうこれ以上一緒にはやって行けない」
 M医師は、興奮した口調になった。
「そうですか……」 
 気抜けがした。M医師は、Kちゃんにはもう時間がないという緊迫感が強く、私達とは落差があったと思う。透析治療は個人差があるものの、十年位続けているという人もいた。私の態度もいつしか批判的、挑戦的ではなかったか。婦長(当時の呼称)に報告して、勤務交代を申し出た。
「まあーあんた達、売り言葉に買い言葉でしょ。アッハッハ……」 
 笑い飛ばされてしまった。すでに覚悟を決めていたのに……。
 その夜、私は深夜勤務であった。真夜中でもありボンヤリ過ごしていた。スーッと目の前を通り過ぎる影を見た。M医師である。眠れない夜を過ごしたのか、あまりにもボーッとしていた私に、何も言えなかったのか。
 翌日からM医師の態度は一変した。Kちゃんの部屋には行かなくなったのだ。憑きが落ちたように振舞っているようにも見えた。本当のところ、M医師は随分悩んでいたのではないかと思う。誰かに指摘されるのを待っていたかのようにさえ思えた。以前のように他の子供達とも接していた。Kちゃんにも大きな変化は無かった。
 患者について検討するカンファレンスの会では、
「今、最高のメンバーだから替わらずにやろう。看護婦(当時の呼称)さんの意見は、天の声だから……」 
 とM医師は強調した。スタッフの発言や意見を尊重する態度に変わり、私への気遣いにも恐縮していた。
「僕はここで、男にしてもらいました」
 M医師が、東京へ帰ることになった時、そう言った。
 一瞬、エッ? と思った。子供達を取り巻く医療と教育の間に起こった諸問題に対して、真摯に関わってきた。そのことは、何者にもかえがたい経験になったということだろうか。
 一方、チームワークの大切さに気付き、時には、医師であっても考え方や姿勢を変える決断をしなければならない。これらの体験から出た言葉ではなかったか。
 今、大都会の中で開業医として、地道に診療を続けている。これからも子供達にとって掛け替えのない医師であり続けることを私は確信している。
 引退した私の『看護婦物語』の輝ける数ページとなった小児病棟の出来事である。
『昔を懐かしむ会』は、アッという間に時間切れになってしまった。
 病気というハンディキャップから、さまざまな困難を克服し、立派に社会で活躍している子供達。
「ようがんばったね」 
 一人ひとりに言いたい。

◇作品を読んで

作者がかつて勤務した、K病院での出来事と、その昔を懐かしむ会を綴った作品である。
 三十年前の昔の仲間達が集まって語り合った。同僚や、その頃入院していた子ども達が集まって懐旧談に浸る。思わず笑ってしまうエピソードもあり、また、子ども達への治療や指導のあり方、人間模様がそのまま素直に書かれている。
 作者は、会が終わった後なのだろうか、自ら呟いた「ようがんばったね」という言葉に三十年の時の流れを思い、更に、大人になった子ども達の未来に希望を託している。
 読み手がフッと笑い、そうだなと頷く。読み終えたとき、感動の残る作品というのは気持ちがよい。最後の数行からは、それがうかがえる。