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  さまざまな涙
                        大田 静間
                  Oota Shizuma 
                                                                                     平成18年11月9日付け 島根日日新聞掲載

 やっと終わった――。
 私はタイガースファンではあるが、どちらが日本一になってもいいと思う。だが、日本シリーズが幕を降さないことには、どうにも落ち着かぬ。
 家人と仲よくテレビで歌謡ショーを見ていても、なぜか気になり、しばし札幌ドームに画面を切り替える。
「そんなに気になるのなら、二階へ上がって一人でみたらどう――」
 私のように、半端なテレビ観戦で、今シーズンを見納めにした人は存外多いような気がする。
 どのような巡り合わせになっているのだろう。
 白川の関を越えたことのなかった甲子園の優勝旗が、一昨年、一気に蝦夷の国まで渡ってから、その地では優勝に対する思いが根づいた。 
 今年、駒大苫小牧は三連覇を逸したが、快挙には間違いない。球史に残る早稲田実業との延長戦で決着がつかなかった。
 そして翌日、二日に亘った優勝戦の後の清しい涙が印象的だった。きっと勝敗のこだわりを超えた心地よい涙であったに違いない。貴重な涙は、以後の人生に待ち受ける苦難を乗り切る原動力になるだろう。
 日本シリーズでは、札幌が沸いた。
 勝利が濃厚になったとき、泣き通しだった新庄選手の姿が奇異に映った。多分、引退を有終の美で飾れる自身への労りの涙であったろう。
 自分のために流す涙など、私には興ざめだが、札幌のファンは寛大であった。泣き崩れた顔でバッターボックスに立ち、大きく一振り空を切って現役を終えたスターに、惜しまない拍手を送った。
 涙のシーンを思い起こすに、政治家が多いのはなぜだろう。
 総理の座を窺って、画策に破れたとされる加藤元幹事長のインタビューで流した涙、役職を更迭された、かつての田中外相の涙。
 いずれもマスコミ主導の報道では、秘められた真相が解らない。
 しかし、公人が自身の問題で公の場で流す涙など誰も同情はしない。
 この時、つくづく思ったものだ。このような人たちに国政の中枢が任されなくてよかったと。
 人を思いやる涙は、見る人に感動を与える。
 アフガニスタンの戦争が終わり、今年の七月、平和の定着についての第二回会議が東京であった。
 挨拶に立ったハーミド・カルザイ大統領の映像が今でも忘れられない。
「私はきれいなホテルで、温かい朝食を摂った。自国には住まいもなく、飢えた子どもたちがいる。その子どもたちに自分は済まないと思う」
 確かこのような内容の発言をして俯いた。
 瞼に焼きついて離れない。 

◇作品を読んで

 嬉しいとき、はたまた悲しいと涙は流れる。痛みを感じたときや、笑い過ぎた場合もそうである。感情が高ぶると、人は涙を出す。この作品は、涙がテーマである。
 プロ野球日本シリーズ、高校野球、引退を表明した北海道日本ハムファイターズの新庄剛志選手、そして、政治家などの流す涙を取り上げ、更に、ハーミド・カルザイ大統領の自国民を思う言葉を引用し、作品を締めくくった。俯いた大統領の目にも涙があったのではないだろうか。
 文は人なりという言葉があるが、書き手の人柄が出ている、その人でなけねば書けないものを書く。言葉を変えれば、書いた人の息づかいが感じられる作品が、読み手の心を打つのだと思う。