その髪どうにかならのか
曽田 依世
平成18年11月2日付け 島根日日新聞掲載
「その髪どうにかならんのか……」 決まって日曜日の朝になると、夫と娘の会話がやたら耳に響く。 「父さんが、髪を切ってやる」 「何で、お父さんが私の髪を切るなんて言うのよ」 お金の無い、大学生の娘にとって、横暴な言い方をする父親の話しかけが、癇にさわるらしい。 「高校の時のように、キサキサと髪を切らんのか」 「髪の長あああい女は、玄人みたいで気に入らんのだ。切れ」 延々と続く会話にうんざりしながら、なおも夫と娘の会話を聞き続ける。 「父さんも散髪に行くから、オマエもいっしょのところで髪を切れ」 「お父さんが、散髪代を出してくれるなら、行ってもいいよ」 (おいおい、娘。そんなことを言っていいのかい?) どうやら、話し合いは決着を迎えたらしく、夫と娘は連れ立って散髪に出かけて行った。 夫と娘は、性分がそっくりだ。お互いが譲りあったときには、何かが起こる。大丈夫かなあと、心配半分、悦び半分。 夫は天然パーマだ。娘も夫と同じく、相当の癖毛の持ち主なのだ。小さい頃、問題は全く無かった。クリンクリンの巻き毛が可愛かったからだ。 高校生になった頃から、パーマをかけさせた。剛毛矯正パーマと、俗に言われている。そんなこと、夫はご存じない。 夫はオシャレパーマだと、未だに思っているらしい。全くと言っていいほど美容に無知で、パーマの料金を知らない。高くても三千円ぐらいにしか思っていない。 夫と娘が二人で出かけるとロクなことがない。 娘が未だよちよち歩きの頃だった。 大山に二人は出かけた。夜になっても帰宅しないので心配をしていると、夫から電話が掛かってきた。 「県立中央病院にいるから、すぐに来てくれ」 どうしたのかと事情を聞くと、娘が大山九合目の大山キャラボクの中に落ちて怪我をした。十針縫う傷なので、自分では手に負えないと言う。 あるときは、こうだった。 斐伊川に居るからと電話があり、駆けつけると、二人共、川に落ちてずぶ濡れである。当然、着替えが無い。ジャスコで服を買って持って来てくれと言う。 普通なら、かくかくしかじかだから着替えの服を持って来てくれ、と言うのだろうが……。 スキーに出かけて、いきなり娘を上級者コースに置き去りにするは、自分の車の鍵を無くしたときには、娘に日が暮れてまで、独りきりで探させるは……。 挙句の果てに獅子は、その子を千仞の谷に蹴落とす≠ニ言っては、小さかった娘をドライブに連れ出して置き去りにする始末なのだ。 数えあげれば、果てしないほどの馬鹿親ぶりなのだ。融通が利かぬ。娘の心理が分かっていない。はっきり言えば、夫は娘と同年齢の子どもなのだ。 そんなことを思っていると、娘と夫が帰宅した。 娘の頭は、夫の満足のゆく仕上がりのヘアスタイルだった。 だが、夫のご機嫌は全く悪い。娘は妙にうきうきとしている。 「お父さんがね、散髪とストレートパーマのお金を呉れた」 夫に尋ねた。 「ねえ、二人分の散髪代は、いくらだったの?」 「普通車のタイヤが、二個買える値段だ!」 二万円も散髪代を払ったようだ。娘を見直した。 (へえ、なかなか、やるじゃあないの) キサキサとした、爽やかなヘアアスタイルの夫と娘の頭が並んでいた。 |
◇作品を読んで
いい文章を書くためには、どうすればよいか。まずは、ものの見方や考え方を養うことである。もちろん、これは簡単には身につかない。好奇心、考える力、情報収集力、発想力などを磨くことによって生まれる。次には、それらを形あるもの、つまり文章として書くことになる。何をどのように書くかである。 ともかく、荒削りでもよいから書いてみる。どうすれば、読み手に伝わるか、読み手を惹きつけ、読ませることが出来るかである。それを考えながら続けていく。 この作品の作者には、日常の断面をうまく切り取り、自分はこう思うという立場を曖昧にしない姿勢と、どうすれば読み手が喜んでくれるかというサービス精神がある。更に表現の面白さが、それを助けるのである。 |