あこがれの板東
篠原 沙代
平成18年9月21日付け島根日日新聞掲載
三十数年前のことである。授業の余談で、先生からこんな話を聞いた。 「ベートーベンの交響曲九番、いわゆる第九は、徳島県の板東にあった俘虜収容所の囚人達によって、日本での初演がなされました。彼らは第一次世界大戦時のドイツ人捕虜でした」 以来、日本で初めて第九の音が鳴り響いた場所は板東。一度は訪れてみたい≠ニ思っていた。もちろん俘虜収容所など、もうそこにはないだろうし、行ってどうなるものでもない。 ただ単に、板東を見てみたい≠セけなのだ。私の頭の中で、『板東』という言葉が一人歩きしていた。残念ながら、いまだに徳島県へ行ったことがない。 友人に「第九の日本初演地はねぇ……」と話しても、誰も興味を示さない。板東へ行きたいね≠ネどと言う友人はいない。クラシックに少し興味のある徳島出身の友人でさえ、「板東には何もないわよ」と冷たく言い放つ。 友人たちの『板東』への無関心さが、よけいに私のあこがれをかき立てた。 そのうち、第九の日本初演は九州大学交響楽団だと誰かが言った。 「そんなはずないよ。板東のドイツ人捕虜たちだって、先生が言ったもの」 だが何の証拠も示せない。私の記憶の中に、先生の言葉があるだけだ。音楽でもなければ、歴史の授業でもなかった。勉強の内容はすっかり忘れているのに、脱線したこのことだけは、はっきりと覚えている。同じ授業を受けた友人に訊いたとしても、興味がなければ忘れているだろう。 神戸の有名洋菓子店『ユーハイム』も、板東にいたドイツ人が解放されたあと、帰国せずに店を開いたのだとも先生に聞いて記憶している。食いしん坊の私は、ユーハイムのお菓子を見るたびに、『第九の板東』へと思いを馳せるのだが、私の生活にとって『板東』はどうでもいいことだった。最近まで、少し気にしながらも、何もせずに過ごしてきた。 二〇〇六年五月、たまたま見たテレビで、新作映画の紹介をやっていた。六月に公開される『バルトの楽園』は日本での第九初演の地、『板東』の話だという。 「そうよ! 先生の言ってたこと、嘘じゃなかったのよ!」 叫んでしまった。 「絶対に、見に行く!」 映画鑑賞の趣味はない私であるが、公開と同時に喜び勇んで見に行った。 内容は、板東で繰り広げられた、日本人とドイツ人の人間ドラマだ。明治維新時の会津藩の悲劇が絡んでいるのは、予想外だった。 映画は、史実を元に制作された。だが、話ができすぎている。第九の演奏なんて、容易にできるものではない。合唱部分を本来の混声ではなく、男声に変えたとはいえ、俘虜収容所などで出来るはずがない。絵空事に思えた。作り話かも知れないと疑ってしまった。初演の時、『百五分の苦痛』と酷評されたように、聴くのも演奏するのも、大変な曲なのだ。西洋音楽に親しみのない人々が、じっと聴いていたのだろうか。それも疑問だった。 しかし、脚色されてはいるが、本当の出来事なのだ。演奏に至るまでには、映画に描かれたものより、もっと困難があったのだろう。 パンフレットの背景に、当時の写真が載っているのが何よりの証拠だ。総勢四十名に満たない小編成である。この人たちが第九の日本初演をしたのかと、感慨深く写真を眺めた。 それでは、九州大学交響楽団は何なのだろうと思い、インターネットや本で調べてみた。彼らは『日本人初演』なのだそうだ。しかも、どちらも、『歓喜の歌』がある四楽章だけの演奏だったこともわかった。『初演』にもいろいろあるものだ。第九全楽章の『日本初演』は、まだ後のことである。 納得した。第九と言えば全樂章だと、私が勝手に思いこんでいたのだ。四楽章だけの演奏なら、やったかもしれないと考えられる。それでも、大変だっただろう。 ちなみに、詳しいパンフレットに、ユーハイムのことも書いてあった。これからも私は、『第九の板東』を思いながら、ユーハイムのお菓子を食べる。 板東は映画効果で、第九日本初演にちなむものが、いろいろ再現されていると聞く。私が、頭の中で描いてきたものとは違うだろう。板東へ行ってみたい気もするが、夢が壊されるのも怖い。かえって何にもない板東の方が、当時に思いを馳せて、胸がいっぱいになるかも知れない。 童話『ブレーメンの音楽隊』は、登場する動物たちが、ブレーメンにあこがれながら、結局行くのをやめた話である。 遠くから板東をあこがれているのが、よいのかも知れない。 |
◇作品を読んで
板東俘虜収容所は、第一次世界大戦時、徳島県鳴門市大麻町(当時は板東郡板東町)にあった施設である。大正六年の建設で約千名の捕虜が収容され、人道的立場を貫き寛大で友好的な措置をとったことから、最も有名な収容所といわれる。 ドイツ人捕虜と日本人との交流が、文化、学問、食文化に至るまであらゆる分野で行われ、特に音楽分野ではオーケストラが高い評価を受けていた。収容所の内外で百回以上ものコンサートが開かれ、その内の一つが作品に登場する第九≠ナある。 作者は映画公開を知り、三十数年前の先生の話からこの作品を書き起こした。史実と音楽を背景にした板東への思いが、よく伝わり実に興味深い。 鳴門市が音楽を通じて、ドイツのリューネブルク市との姉妹都市交流を始めてから、今年は三十三年目になる。 |