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随 筆   あ の 日  
              佐 藤 文 香
 
                                                                            
                       島根日日新聞 平成14年11月6日掲載

 日曜の朝、いつもの通り窓際の机で本を読んでいると、ページに影が落ちた。顔を上げると、向かいの家のお兄ちゃんが立っている。私は、突然顔が赤くなるのを感じた。女学校、洋裁学院と通って来た私には、男の人に接する機会などなく、ましてや若い人とはまるで関わりがなかった。今から五十年も前、私が二十前のことである。 
「これ、読んでみませんか?」
 遠慮がちに差し出された本の題字には、『教養としての哲学』と厳めしく書かれている。(有り難うございます)と、私は小さな声で言った。ただ、それだけのやりとりだったが、男の人と二人だけで話をした最初である。
 お兄ちゃんは、どこかの学校に通う学生さんだった。家は、石垣を積んだ上に建っており、見上げる私の家からは中が見えない。上からは、私が本を読んでいるが見えたのだろう。恥ずかしくなり、机を部屋の中央に動かした。
 数日後、哲学の意味もよく分からず、それでも読み終わった本に礼状を添えて返しに行ったが、お兄ちゃんは留守だった。ほっとしたような、残念なような気持ちのまま玄関にそれを置いて帰った。
 お兄ちゃんには、それから会うことはなかった。しばらくして、父が山代にあった少年鑑別所に勤めることになり、引っ越してしまったからである。
 半年経って、父は岩国へ転勤した。弟は広島大学に入学しており、好きな松江を動きたくない私は上乃木の床几山の下の小さな家で、祖母と二人暮らしを始めた。通っていた田淵洋裁学院を卒業し、頼まれて、先生が経営されている東本町の洋裁店に勤めていたので通うのに便利だった。
 当時、宍道湖畔の白潟公園は広場があった。私は自転車に乗れなかったので、友達を誘い、練習を始めた。左足はペダルに乗るのだが、右足が反対側のペダルまでなかなか行かない。ちょうどそこで野球をしていた男の人が見かねたのか、自転車の荷台を持って押してくれた。男の人と話をするのは、哲学の本を見せてくれたお兄ちゃん以来だった。
 運動神経が鈍いせいだろうが、練習を続けてもなかなかうまく乗れない。なんとか一週間かかって乗れるようになった時は、嬉しかった。
 数日後、仕事が終わり、自転車を押して松江大橋を渡っている時だった。後ろから声を掛けられた。立ち止まって振り返ると、自転車の練習に付き合ってくれた男の人だった。
「あ、お陰様で助かってます」
 私は、慌ててお礼を言った。かつてのお兄ちゃんの時のように、なぜか顔が赤くなった。
「次の日曜日に映画を見に行きませんか?」
 驚いた。男の人に、そんなことを言われたのは初めてだった。驚いたというよりも、(えっ? なんで――)という思いが先だった。
「十一時に映画館の前で待ってるから……」
それだけ言うと、足早に追い越して行かれた。一方的な約束だったが、そのことよりも誘われたことが嬉しかった。映画も好きであり、行きたいと思った。
 次の日曜日、松江駅通りの国際映画館に二人で入った。初めてのことなので、戸惑いもしたが、嬉しかった。何という題名の映画か忘れたが、洋画だった。
「終わったら、更科ラーメンを食べに行こう」
 暗がりでそう言われた。一人で観ていたのではなかったことに気がついた。字幕を追うのに精一杯で、彼が隣りに居ることを忘れていたのだ。(なんてことだ)と思った。映画館前の「更科」という店で、映画の話をしながらラーメンを食べた。楽しかった。
 それ以後、洋画を主に何度となく誘われた。見終わると、いつも宍道湖畔を散歩しながら家まで送ってもらうことになった。
「じゃあ、また……」
 その声と一緒に、太く大きな手で私の手を握られ、いつも嬉しいと思った。城山の夜桜の見物、鼕行列……。誘われるままに、あちこちと二人で行った。男の人は、女の頭の良し悪しよりも、顔立ちの美しい人を好み、結婚するならそういう人でなくてはと思うのではないか――私の心の中に、男はそうなのだという意識があった。だから、醜女で男のような性格の私を、ただの友達として面白いから付き合ってくださるのだと思っていた。艶やかな男と女の会話はなかったのである。
 一年余りの付き合いが続いた時、父が松江に来て、こう言った。
「叔母が嫁いでいる斐川の直江のおじいさんのところに養女として行ってくれ。長男も次男も戦死されてな」
 私の叔母は東京大空襲で焼け出され、実家に帰った後、奥さんも亡くなられて一人暮らしで困っている三十近くも年上の人のところに嫁いでいた。私が小さかった頃、両親は共に学校勤めで、私はその叔母に背負われて、乳を飲ませに連れて行ってもらったりした恩義もある。(嫌です)とはどうしても言えなかった。
 床几山の松林の中で、私はそのことを彼に伝えた。
「どうしても行くのか?」
 肩を抱かれ、胸が震えた。
「仕方なく……」
 涙が出てそれ以上は何も言うことが出来なかった。
 私は養父に彼のことを話しておかなければいけないと思った。(養女として来てもらったからには、ここの家に居てもらわなくては困る。その人に家を継いでもらっても、転勤がある公務員では家の商売に差し支える。)――そこまで言われると、仕方がない。彼に直接会って言うことはどうしても出来なかった。
「ごめんなさい……」
 電話でしか言えなかった。
「どうして私のような女と付き合ってくださったんですか?」
「目が大きく、それに澄んでいて嘘のつけない人だと思ったし、笑ったときの歯が真っ白で魅力的だった……」
 彼の声が受話器の中から途切れ途切れに聞こえて来た。私の心は揺れた。だが、それは彼との別れだった。少女の頃に読んだ有吉佐和子の本に書かれていた『女が嫁ぐ時は、川を遡ってはいけません。川を下って嫁ぐのが幸せなのです。』という一文を思い出しながら私は彼と別れた。
 五十年が過ぎた。本を見せてくれたお兄ちゃん、そして、あの彼は、いまどうしているのだろう。 


講師評

 人は月日の経過とともに、思い出の中から出来るだけ嫌なことは消そうとするのではないだろうか。記憶から捨て去ることは無理かもしれないが、その分、楽しかったことは増幅しようと無意識の中で思う。
 この作品は、半世紀も前になった自分の気持ちや体験を書くことによって残しておこうと意図されたものだろう。経験したこと、思ったことが素直に、しかも衒いなく表現され、読む人の心に迫る。赤裸々な「私」を書くということは、まさに『書く』ということなのである。よい作品は、そこから生まれる。
 原稿用紙の枚数が制限されている場合、得てして、期間の長い思い出を書くと、どうしても羅列的になり、粗筋に近いものになる。短編も同じだが、「切り取る」ということが大事であり、コツではないかと思う。