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随 筆
 飛ばない蛍                園 山 多賀子

                        島根日日新聞 平成14年7月3日掲載

今年は、梅雨に入っても雨が少ない。鉢植えの潅水は、私の朝の仕事になった。その丹誠の甲斐あって、玄関前に置いたカサブランカが、ピンク、白、黄と多彩な美しさの競い合いを見せていた。花は、朝を爽やかな気分にし、一日中、心を潤わせてくれる。
 ある朝のことである。ふと、水やりの手を休めて花に目を遣ると、二匹の蛍がいる。一匹は動かず、もう一つはそれに寄り添っているように見える。もちろん、明るい朝のことであるから、光はとうに失っている。この時刻、こんな場所に蛍がいたとは意外だった。
 きっと、二匹の蛍は、花の上で愛の灯りにときめき、酔いしれて帰る刻(とき)を忘れたのであろう。「ときめき」の花に水をやり、庭の茂みの中に二匹を移してやった。夜になれば、ふたたび光に遇えることを期待して……。
 かつては、溝の周辺にも沢山の蛍が舞っていた。杉の木などは、あたかもクリスマスツリーを思わせ、子ども達を喜ばせもしたものだ。
 夜になった。蛍を放した辺りを探すけれども、一向に見当たらぬ。あちこち探すが、光の点滅には逢えなかった。
 私の蛍探しは続いた。
 ある夜のことだった。孫が「蛍! いるよ」と大声を上げた。驚いて出て見ると、今度は勝手口の窓で一匹の蛍が弱々しい光を放っている。
 懐中電灯を持ち出し、その明かりを頼りに、水をたっぷりと含ませた葉っぱで蛍を導こうとした。と、蛍は突然、その気持ちも知らぬげに飛び立った。追った目は、この間改築した新居の白壁で止まった。
 蛍はその高い所にいた。新居は亡夫の城だったが、孫のために建て替えたのである。胸が騒いだ。最初に蛍を見つけたのは玄関で、次は勝手口である。
 星が流れて蛍になり、古巣である我が家に帰って来たのでは……。じっと佇んだまま、蛍を見上げた。葉の上を転がる水滴のように、涙が流れた。隣の猫が立ちつくす私を不審そうに横目で見て、足早に駆け抜けて行った。
 部屋に帰り、読みさしの本を開いたが、心は虚ろだった。
 暫くしてまた庭に出てみた。
 壁に蛍の光はなかった。
 空に昇り、星になったのかもしれない。いや、幻の蛍だったかも……。
 幻ならばそれはそれでよい。飛ばない蛍を心の襞の奥底にしまっておこう。心の中に、いつまでも灯りを点し続けるのだから。


※講師評
 ある朝、玄関で蛍を見つけた筆者は、その蛍をそっと葉陰に返す。数日後、勝手口で蛍を見つけた。その蛍は、亡夫への思いを秘めた白壁に灯りを点した。部屋に帰るが落ち着かない。再び外に出て見たが、蛍はいなかった。幻だったかもしれない、と筆者は考える。
 花の上で愛の交歓をしていた蛍と、亡夫との思い出をさりげなく重ねたとも思える感性は豊かである。亡夫は描かれてはいないが、読み手は蛍からそれを思う。「幻ならば、それはそれでよい」という文に、思いが込められている。白壁で灯りを点している蛍を見て涙する筆者の思いが、わずか原稿用紙二枚半の見事な文章となって結実した。筆者は、大正元年生まれ。
                 【島根日日新聞社客員文芸委員  古浦義己】