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  元 朝
                        津田 月美  
                                                                                     平成18年6月15日付け島根日日新聞掲載

 平成五年元旦、六時四十五分。
 息子の家で新年を迎える。除夜の鐘を聞いても暫く起きてお喋りをしていたから、床に入り、眠ったのは何時であっただろう。もう目が覚めるとは……。息子夫婦、孫三人はまだ眠っているもようだ。
 年末、あまり慌ただしく過ごすので、年越とお正月は息子の家で送るように勧められて来はしたものの、あれもこれも仕残したことどもが気になっているせいなのだろうか。一年の計は元旦にあり≠ネどという言葉が一瞬脳裏を去来したが、ふりきって床をあげて縁側に出る。
 と、蘭の鉢などが所せましと並び、新年の淑気の中に息づいているではないか。うち一、二輪綻び始めている。仕事と家庭の狭間での忙しい日々なのに、こうした手入れを怠らない嫁の心意気にうたれ、愛おしく思ったことである。
 玻璃戸をあけると、東側一帯は、出雲国庁跡の田園が開け、彼方は茜色に染まり、日の出前の佇まいは得も言われない。
 年頭の身仕舞いをし、音を立てないようにそっと外に出る。すごい霜だ。新年の冷たい空気が身をひきしめて快い。空は底抜けに晴れ渡っている。隣家の屋根では初雀が鳴き交わし、山の手では、ひときわ高い木に初鴉の声もする。

 凍て草の脆き感触古道ゆく

 霜に凍て、雪をかぶったような白い草を踏むと、ガラスか薄い陶片かのように、こわれてしまいそうで心もとない。
 暁の空の下に近々と立つ大山、それに連なる山々は模糊として茜色に包まれて静もる。
 左、竹藪の向こうの山は、みずみずしい濃紺の山肌に薄絹の鉢巻を締めたような形に霧がかかり、手を伸ばせば染まりそうに近々と親しく見える。
 畑中の道を探し辿っていると、やがて初日の出。
 大山の右よりが、一段と輝き、それに連なる稜線も眩しさを増す。届く光芒も茜色から少しずつ黄金色に光っていく。眩しさに、日の出の瞬間を撮ろうと、手にしていたカメラを構えた。山の端から顔を出したばかりの初日だろうか、淡い満月が放射線状に三つ連なったように見える。肉眼では見えないのが不思議だ。初日の出の進行の早さに、慌ててカメラを覗いたり、肉眼で初日を探したり、とつおいつ忙しい。
 近景の枯芒は銀色に光り、裸木やそれに纏わる蔓などは黄金の網目となって、光を通して静もる。しかし、ほとんど遮るもののない広大な田園を見遙かす限りを黄金色に染めながら、初日の日矢は、眩しい金粉を播きながらひろがってゆく。この時空の静寂の中での厳粛な日の出という大自然の饗宴を前に、私はただ一人、固唾をのんで佇ちつくしていた。カメラを構えながら撮ることもせず、瞬時にしてか、長い時間か……。無意識のうちに、初日の出は完了。そこに、大地に、頭上に、初日は眩しく輝いていた。
 その瞬間、この荘厳な日の出の演出は、天平の昔より、否、劫初より、人間が気付くと気づかないとに拘わらず、幾千万たびとなく繰返された大自然の営みなのではないか。この光、空気、色彩と佇まいは、太古のまま坦々と演じられてきたのだということに思い至り我にかえった。
 今、膨大な時の流れの、ほんの一瞬である、一九九三年、平成五年の元旦、七十一歳の私が、変わることなく繰返されるであろう大自然の営みに、たまたま幸運にも相いあうことができたのだと思うと、胸の奥がキュッと熱くなり、涙してしまった。
 どうか、この大自然の営みが未来永劫に続きますようにと祈りながら、今来た道を戻っていった。

  浮世絵の空の色なり初み空
  初茜去年の出会ひを数えつゝ

 以来、二千六年元旦まで、息子宅にて越年を続けてきたが、この記の至福には再び相あうことはなかった。いつまで、この越年をゆるされることであろうか。

◇作品を読んで

 十三年前、平成五年の元旦に見た感動的な風景を新年を迎えるたびに思い出す。作者は思い出を書くことによって、自らの生きてきた証しを残そうとしているように思える。書かれた一つ一つの作品が、自分史なのである。
 作品には、生きていることの喜びが、選び抜かれた言葉で綴られている。「玻璃戸」、「劫初」、「身仕舞い」など、消えようとする日本語を生き返らせる。作者にとって、年頭に服装を整えることは仕度≠ナあってはならない。身仕舞い≠ニいう言葉を使うことによってこそ、新年という思いが鮮やかに描き出されるのである。
 言葉は時代と共に変化するとはいうが、「時分時」、「遣らずの雨」などは懐かしい日本語になってしまった。美しい言葉の幾つかを死語にしてしまうのは、いかにも残念である。