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  年新た
                                  穂波 美央  
                                                                         平成18年3月9日付け島根日日新聞掲載

 毎日のように見てきた平成十七年の月別カレンダーが、一枚になってしまった。
 寒い冬籠もりから始まり、暖かい春を待ち望む。万花を愛でているのも束の間、周辺の田圃では蛙が鳴き出す、やがて緑のか細い早苗が風に弄ばれる。それもすぐに逞しく色を増し、強い葉振りとなって、風を撥ね返さんばかりになる。
 いつしか黄色の穂波が揺れるようになる。空は、まだ明るく威勢のいい空気が感じられる。そうして、そろそろ風に淋しさを覚えるようになると、山々は色づき始める。
 季節の移ろいと共に、一枚一枚をはがしてきたのである。
 月日が早く経ち、ああ、また、正月が巡ってくるのかと思うと、正月は来ない方がいいなどと理不尽なことを考えたりする。歌を唄って待った子どもの頃が懐かしい。
 かつて亡夫は、お正月の準備をさほど手伝う方ではなかった。大晦日には、なぜ一日越すだけで大騒ぎをし、過酷に精力を注ぐのかと文句まがいに言っていた。その通りだと思いつつも、ずっと年迎えには拘泥してきたのである。
 現に、七十半ばを数える身になってみると、更に齢を重ね、行く末に寂寥感が募り、芽出度からずと思うのである。
 そんなことを考えながら師走も押し迫ってきたのに、クリスマスまではのほほんと過ごしていた。
 二十六日には、七十才以上の自治会サロン行事のフラワーアレンジメントがあった。正月に相応しい七種類の草花を鉢に寄せ植えして持ち帰る。
 やっと正月に向かう気分が湧いてきた。
 明くる二十七日は、かねてシルバー人材センターへ依頼しておいた大掃除の日である。ガラス拭きと室内清掃をそれぞれ二人でやってもらった。近年、独り暮らしになってからは恒例となり、心身共に楽になった。
 二十八日には、二十五日以来、夜なべで年賀状を描き続けた。宛名は毛筆で、ほかはスタンプを押していた。一筆ずつ文言を書き足し、百枚ばかりを朝までかかって終えた。買い出しに行く途中、郵便局で投函してほっとする。
 帰宅すると、五升の糯米を水に浸しておき、庭の草木に肥料を粗略に撒き散らして済ませたことにした。
 二十九日は、朝から珍しく陽が射したので、帰省する子達の夜具を干した。
 形ばかりに、ざっと庭を掃き清める。床の間の軸を替える。今年は、遊び心で「一冨士二鷹三茄子」にした。活花には、梅の木と庭にある黄色の千両、葉ぼたん、赤い色が欲しいと万両を手折ってきて白い菊も加えた。
 正月を迎えるに相応しくなってきた。
 三十日は、早朝より餅搗きである。器械なので一人で出来る。合間に手順よくおせち料理も作る。
 午后の飛行機で帰省する子の家族を出雲市駅まで迎えに出た。二才の孫は、母親の胸の中で眠っている。
 三十一日、いよいよ大晦日。朝からおせち料理を次々に作り、夜は久し振りに賑やかな年越しの宴となる。蕎麦も膳に加えられ、すっかり落ち着いて安堵する。至福の絶頂が味わえた。
 元気で迎える正月に乾杯!
 紅白の結果を見終わると、近くのお寺へ煩悩を払うため、除夜の鐘撞きに子と二人で寒い外へ出た。ゴンー、ゴンーと一打ずつ撞く音が聞こえてくる。篝火の中で顔見知りの人と年頭の挨拶を交わす。本堂へ上がり、拝んでから、有志の方の作られた豚汁で体を温めて帰路につく。
 その足で産土神社へ初詣。拝殿へ上がり、御酒を口に含んで年頭の玉串を捧げる。神代の明かりかとも思える小さな灯で足元を照らされ、いくつかの祠をまわり、護国と豊饒と家族の安泰を祈る。
 家の神棚と仏壇を拝み、新しい年を元気で迎えられたことに感謝して、床に就いた。
 平成十八年元旦。
 屠蘇と雑煮で祝い、町内の新年会に出席して、午后は出雲大社へ皆で初詣。今年の元旦は近年にない日本晴れで、本殿の裏参道をもまわり、素戔嗚尊の祠も拝んでゆっくり歩いた。
 満足感に充ちた正月を芽出度く迎えられた自分がここに在るのが嬉しく、けじめをつけて越えた清々しい新春だからこそ、堪能できる喜びがあり、仕合わせな気分にさせられる。
 今後、何年、この感動が重ねられか分からないが、それは考えないことにして、今を大切に、健康を守り、感謝の日々を送ることに専念して行こうと決意を新たにした。

◇作品を読んで

冒頭はカレンダーを素材にして、一年の移り変わりを振り返る四段落であり、情感がこもっている。そして、亡夫の思い出から年末、年始の行事を語り、これからの人生を更に感動深いものにしようという願いで結んだ。
 名文家といわれた作家の久世光彦氏が、一週間前に急逝した。翌日の新聞各紙は一斉に死を報じ、コラム等でも早いそれを悼んだ。
 山本周五郎賞の『一九三四年冬―乱歩』や『曠吉の恋 昭和人情馬鹿物語』、雑誌に連載中の『都々逸の女たち』は、昭和の初めを舞台にし、いまは使われることの少ない言葉を大事にして紡ぎ続けた作品である。
 文章が上手いかそうでないかで、人の価値が判断されるわけではない。だが、よい文章が書けるということは、価値をより高める一つの方策ではないか。島根日日新聞文学教室は、そういう役割も果たしたい。