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  時代劇は死んだ
                                  大田 静間
                                                                         平成18年2月16日付け島根日日新聞掲載

 穏やかな年明けであった。屠蘇をいただく前に、出雲大社に参拝した。
 何も考えずに四拍したあと、おみくじを引いたら、病治る。旅行よろし。結婚までもよろしであった。
 口には出さないが、六十歳半ばを過ぎた齢になっても、いい気分であった。
 昨年は少し遅れて出発したばっかりに、たかだか十キロメートルの道程を、車で一時間半も要した。おまけに、病なが引く。旅行わるし。願い叶わずで暗い正月であった。
 年頭に、想定外の福音を得て、俄然奮い立ち、我が右脳は「おも舵いっぱい」の指示を出した。
 しかし、悪い生活習慣に浸った老躯は、指令通りには動かない。舵を切っても方向転換ができないのだ。
 結局、だらだらと、手枕をしてお腹をよじりながら、テレビを見て過ごした。
 さて、テレビ番組であるが、正月はお笑いが主役である。しかし、これに飽きた人たちのために、ドラマも用意されている。
 今年は何編か、大作が組まれていた。それもなぜか、戦国時代に照準が当てられている。
 時代絵巻のテレビ化は、莫大な経費がかかるという。
 新聞の番組欄に目を通し、赤ペンで囲みながらわくわくする。私は時代劇ファンだ。
 鋳型に嵌められた社会で、したたかに生きる姿を演じるものが好きだ。
 身の処し方を誤れば、死につながる藩主の苦悩。いかなる時も、辺りに神経を張りめぐらせ、見えぬ敵に備える武芸者の世界。 
 今年も何作かあった。しかしどの作品からも、映像から手繰り寄せられる迫力が伝わって来ない。
 もう私の琴線は、弛みにゆるみ、触れても音が出なくなっているのかもしれない。
 そんな疑念を抱きながら、うとうとしている耳に、怒りの声が聞こえて目覚めた。そこには、若い武将の顔があった。
 しばらく、その表情を眺めている内に、ふと謎が解けたように思った。
 それは「眼だ」。人を疑うことを知らない眼だ。これを囲む若武者も、一様にやさしい眼をしている。
 宮本武蔵の自画像を思い描いた。あれは、誰の目にも異相と映るのではなかろうか。そしてあの異相の源は、敵と対峙する眼だ。武芸者として、生き残るため敵の心を射抜く眼だ。
 人は豊かな時代を過ごすと、柔和な相が出来上がる。
 そして、皮肉なことに、私たちは、束縛された社会で傷つきながら道を求める。武士や町民の生き様に感動を求めようとする。
 もう時代物語を楽しむのは、小説の中だけにしかないようだ。

◇作品を読んで

 作品につけられた作者のメモに、「長く怠けておりました。今回、つくづく感じましたのは、書くことを習慣づけないと、たった三枚足らずの原稿がまとまらず、四苦八苦するということでした。」とあった。継続は力なりという古くからの言葉があるが、作者の反省は的を射ており、まさにその通りである。
この作品で作者が意図的に試みたのは、同じ言葉を繰り返してみようということだった。一般的には、一文または近接領域で重複させないというのが原則だが、力強さなどを増すためには、うまく使えば繰り返しも有用な方法である。文学教室は実験の場であり、いろいろな研究をしてみるのも面白い。
 前作は、『季刊山陰』七号掲載の、原稿用紙で三十枚を超える小説であった。多くの分野に挑もうとする熱意には敬服である。