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  禁煙闘争
                                  篠原 沙代
                                                                         平成18年1月26日・2月2日付け島根日日新聞掲載

 堤隆康は煙草を吸わない。ただし、家族に対しての建前である。家族も、隆康が喫煙しないという建前で接している。
 最初、一人息子の浩樹に禁煙宣言をした時は、妻の佳乃の前では吸っていた。しかし、その後、佳乃にも禁煙を誓ったので、家族の前では吸えなくなってしまったのだ。

 四年前、中学三年生だった浩樹は、学校で禁煙教育を受けていた。
 担当の教師は、煙草をほぐしたものと水をビーカーに入れ、その中にミミズをつけて一晩おいた。明くる日、ミミズが死んでいるのを見せて、ニコチンの毒が怖いことを教えたのである。
 だが、生徒たちはそれが脅しだと知っている。何人もの先生たちが、職員室で喫煙しているのだ。家庭には、喫煙しながらも元気で長生きしている祖父母がいたりして、実験は信じられない。先生が怖いから反発しないが、陰では舌を出している。
 浩樹は、あえて喫煙する気はないものの、身体に悪いとも思わない。なぜなら父親の隆康が、一日に二箱くらい吸っているのに元気だからだ。窓を締めきっていると部屋の中が、煙で霞んでいることがある。家族の誰もが、副流煙を吸わされているのだ。佳乃は咳き込むが、浩樹自身はなんともない。
 隆康は、夕食の時間に学校の話をしていた浩樹に訴えられた。
「変だよ。恐ろしいものなら、先生たちが吸うのをやめるはずじゃないか」
「じゃあ、お父さんはやめるよ」
「ほんと?」
「ほんとさ、誓約書を書いてもいいよ」
「じゃ、今すぐ書いてね」
 浩樹は箸を置くと、自分の部屋へ行ってルーズリーフノートとボールペンを持ってきた。
――これからは煙草を吸いません。もし吸ったら、浩樹に一万円を払います。  堤隆康
 浩樹は、誓約文の書かれたページを切りとりながら言った。
「これは大切にしまっておくね」

 喫煙をやめる気などまったくないのに、話の弾みで、隆康は苦痛を伴う約束をしてしまった。以来、浩樹の前では喫煙できなくなった。
 平日、隆康は朝から夜まで会社に行っている。休日でも浩樹が一日中家にいることはめったにない。だから、難しいことではないと思っていた。だが、夕食後の一服も、朝の一服もできない。休みの日に、浩樹と一緒に出掛けるとなると、全く喫煙できない。半年で、佳乃に弱音を吐いた。
「一万円払ってもいいからやめるよ」
「意思の弱いことがばれます。父親のプライドを懸けて辛抱してください」
 たしなめられた。

 佳乃は、隆康に本当の禁煙をしてもらいたかった。もちろん隆康の健康を心配しているからなのだが、煙が嫌、灰の始末も嫌、家具や壁がニコチンで黄ばむのも嫌だったのだ。住んでいる社宅マンションは、浩樹が生まれてまもなく入居した。十五年も部屋の壁に煙草の煙を吐きかけていることになる。そろそろマイホームを手に入れようと考えている。退去するときは、壁紙を張り替えなければならないだろう。新しい家を煙草のヤニで汚されるのも嫌だ。

 浩樹が高校生になってまもなく、煙草の火を当てられるという事件がおきた。
 電車通学の浩樹が、学校帰り、駅の改札口に並んでいた時のことだった。出札口から出てきた人の波が広がり、背広姿の紳士然とした男がすぐ左横に来たと思った瞬間、浩樹は手の甲に違和感を感じた。相手が先に気づいた。
「あっ、失礼」
「えっ……」
「大丈夫?」
「はぁ」
 その時は何がおきたかわからず、電車に乗り遅れたくなかったので、さっさと改札をくぐった。電車の中で左手の甲を見た。人差し指と中指の付け根から三センチくらい手首に寄った一点が、赤く腫れていた。煙草の火を当てられたのだ。相手はどこの誰だかわからない。浩樹は自分の鈍感さを悔やんだ。
 火傷は一晩痛んだが、数日で治った。跡も残らなかった。
 浩樹と相手の背丈が同じくらいだったから、当たったのは手の甲だ。もし、浩樹が幼児だったら、顔に当たったかも知れない。目に命中した可能性もある。そう思うと浩樹は身の毛がよだつ。隆康と佳乃に宣言した。
「僕は、絶対に煙草なんか吸わないよ」

 この事件の数日後、新聞に禁煙クラブの紹介記事が載っていた。隆康は佳乃にしつこく入会を勧められた。手続きなど面倒なことは全て佳乃がすると言うし、どこかへ出かけて行く必要もないらしい。楽に止められるならばと、煙草を断つ気になった隆康は説得に応じた。
 その日のうちに、佳乃が郵便振込みで会費を納めてきた。
 十日後には、禁煙を応援するグッズが送られてきた。喫煙がいかに大罪であるかを書いたパンフレット、禁煙の努力の仕方を書いた本などだった。一月後、三月後、六月後、一年後に、禁煙を証明する家族二人以上の印を押した返信はがきを投函しなければならない。禁煙に成功した人には、お楽しみとして抽選で温泉旅行が当たる。
 隆康は一通り書物に目を通した。やさしい文章で、挿し絵や漫画を多く取り入れてあるから、すぐに読み終えた。要するに、禁煙しろという内容だ。特に目新しい内容ではない。簡単にできれば悩まない。近所の禁煙の会も紹介してくれるそうだが、そんなところへ行く気はない。何の努力もしないで、禁煙させて欲しいのだ。本当に禁煙できるのか心配になった。
 せっかく会費を払ったのだから禁煙してくれと佳乃が言う。浩樹に加えて、佳乃の前でも禁煙することになった。
 一月後、三月後、六月後、禁煙証明はがきに、佳乃と浩樹はそれぞれの堤∴を押した。
 しかし、実際、隆康の禁煙は一か月も持たなかった。

 佳乃は気付いていた。隆康の衣類から煙草のにおいがするのだ。友人に、隆康が禁煙に挫折したらしいことを話した。
「ちょっと散歩してくると言って出かけることが多くなったわ。多分、吸ってると思う」
「気がつかないふりをしたほうがいいわよ」
「どうして」
「家の中で吸わないだけでも、本数が減るじゃない」
「そうね」
 佳乃は、少なくとも家族の前では隆康に禁煙してもらおうと決意した。

 もう一月ほどで、禁煙が一年になる休日のことだった。その日、隆康は用事で出かけていた。 
 佳乃は、マンションのメールボックスに煙草とライターが置いてあるのを見つけた。入れることは誰でもできるが、暗証番号式の鍵が掛かるから、家族しか取り出すことができない。
 部屋にいるのは浩樹だ。浩樹が喫煙するのだろうか。そんな雰囲気の子ではないが、知らぬは親ばかりということもありうる。高校生の喫煙は、親が公認するわけにはいかない。下手に厳しく叱りつけても、しこりが残るだろう。変に隠されて、火事でも起こされたらこれも困る。
 煙草をそのままにして、部屋へ戻った。
 佳乃は内心どきどきしながらも、さりげない素振りで浩樹に訊いた。
「あなた煙草吸うの?」
「吸うはずないだろ、熱い目に遭ったからね」
「メールボックスに煙草があったのよ。マンションの誰かが入れたのかしら?」
「親父かもしれないよ」
「あぁ、ありうるね。取り出すのを忘れて出かけたのかしら」
「誓約書をつきつけようかな」
「まだ、持ってたの?」
「うん、何かの時に役に立つと思ってね」
「やめてよ、堂々と吸われるのはいやなの」
 煙草の持ち主が浩樹でないとわかり、佳乃はほっとした。と同時に、隆康の禁煙破りを確信した。

 禁煙一年が近づくにつれ、佳乃が温泉旅行の話を盛んにするようなった。隆康は適当に相槌を打ったが、耳をふさぎたい気分だった。
 全国で何人禁煙努力をしているかわからないが、当選するのはたった五組である。当たるはずがない。だが、もし当たったら、禁煙破りがばれてしまう。温泉旅行当選者には、血液中のニコチン濃度を最寄の病院で検査する義務があるのだ。医師がニコチン中毒者でないという証明をしてくれなければ、当選は無効となる。もし、温泉旅行が当たって、病院へニコチン検査に行かされたら、いい恥さらしだ。隆康の気は滅入る一方だった。          
 それでも隆康は、とにかく家庭内では禁煙一年を遂行した。
「おめでとう」
 一年目のその日、佳乃がニッコリ笑って、証明はがきを賞状のように両手で持って隆康に見せた。
「早速、投函してきましょう」
「自分でする」
 隆康は、はがきをひったくって外へ出た。もちろん投函しなかった。破り捨て、ポスト近くのごみ箱に投げ込んだ。

 部屋を出て行く隆康を見て、浩樹が大笑いした。
「親父、あせってる。かわゆい!」
 
 隆康とて最初から佳乃や浩樹を騙すつもりはなかった。止められるものならそうしたかった。だが、今まで、ちょっとした間合いや手の隙に喫煙していたのを、急には止められない。口が淋しく、手が余る。仕事中に喫煙は許されても、ガムを噛んだり飴をなめるわけにはいかない。同僚社員たちも喫煙していれば、元に戻るのに時間はかからなかった。
 ニコチン中毒ということもあるのだろう。禁断症状なのか、喫煙しないでいるとイライラする。一服すると気分が落着く。
 温泉旅行当選の通知は当然こなかった。隆康は家族の前では禁煙し、佳乃や浩樹はそれを当たり前のこととして過ごしていた。

 その年の秋、隆康と佳乃は親戚の結婚式に招かれた。披露宴会場ではあちこちで喫煙している。佳乃と一緒なので、隆康は吸うわけにはいかない。
 どうにも落着かなくなった隆康は、知り合いと話すついでに、会場の外へ出て一服していた。煙を深々と吸いこんでいい気分だった。
 突然、会場の扉が開いて、佳乃が出てきた。
「あら、あなたここにいたのですか」
 隆康は煙草を指にはさんだ右手を、さっと身体の後ろに回した。
「酒で暑くなったから、少し冷まそうと思ってね……」
「そうですか。私は飲みすぎでお手洗いにいきたくなっちゃった」
 そう言い残し、佳乃は化粧室へ行った。隆康の背後から紫煙がたち昇っていた。

 暮れに、隆康は家族と久しぶりに実家に帰省し、正月を寛いで過ごした。
 父や兄が美味しそうに煙草を吸っていた。隆康が吸わないのに気づいた兄が訊いた。
「隆康、煙草すわんのか?」
「やめた」
「ほんとかや?」
「実は……」
 隆康が言いかけたとたん、
「やめたんです!」
 佳乃が大声で叫んだ。兄はもちろん、隆康も驚いた。
 佳乃は陽気な性格だが、隆康の実家ではあまりしゃべらない。堤一族の元気さには負けると承知しているので、帰省すると、借りてきた猫のごとく、おとなしくしているのだ。
 座がしらけてしまった。気まずい雰囲気の中、佳乃は部屋を出て行った。
 浩樹の呟きが聞こえた。
「おふくろ、必死だな」

 数か月が経った。禁煙宣言をしてから二年が経っていたが、相変わらず家族の前では禁煙を続けていた。
 ある日、堤家の法事に夫婦で出かけた。
 座が和み、みんな良い気分で酒を酌み交わし、料理を食べながら談笑していた。左隣に佳乃が座っているのに、隆康は右隣の兄から煙草をもらって、堂々と吸い始めた。
「何をしているのですか」
「見ればわかるだろ!」
 隆康は決然と言った。親戚一同の前で佳乃に認めさせたら、これからは堂々と吸えるだろう。
「見なかったことにします! やめてください」
 佳乃の声は低くゆっくりだった。だが、目は吊り上がり、頬が引きつっていた。どんな行動にでるか予想がつかない。ヒステリックな姿を人目に晒したくなかった。
 隆康は仕方なく、煙草の火を消した。

◇作品を読んで

 四百字詰め原稿用紙にして、約十五枚の小説である。作者が書き始めて迷ったことは、登場人物の視点の移動、つまり、主人公の目線の問題であったという。
 小説は、第一、第二、第三人称のうちのいずれかで書かれる。第一と第二人称はともかく、第三人称では、主人公と書き手が同じ立場、そして、登場人物の上に書き手の視点があるという二つの形がある。後者の場合は登場人物全ての視点を同時に書くことになるから、混乱しないように書くためには、かなりな文章上の配慮が必要となるはずである。ただ、この二つが一つの作品で同時に出てくると、読み手は戸惑う。
 小説における視点のありようは難しいが、それは作品を書き続けることで自分のものになると思う。小説を書く時に、書き手が終始、どの立場で構成しようとしているかということを念頭におくべきである。
 作者は、その困難な課題に繰り返し挑戦し、この作品を書いた。