心 臓
森 マコ
平成18年1月6日付け島根日日新聞掲載
高校の国語の本が、なげっぱなしになっている。 娘がまた、いつものように、ぼろっと畳の上に出したまま学校に行ったのだ。 どうしてだろうか、母親の私は整理整頓好きなのに、娘の裕子は、不整理不整頓を信条にしているかのようにだらしない。昨夜、試験があるなどと言いながら、眺めていた国語の古典の本だった。 「清少納言という名前なんかやめて、枕草子っていうペンネーム付ければいいのに」 ぶつぶつ言いながら、勉強らしき格好はしていたのだが。 私の家には、勉強するための机らしき物は無いから仕方ないのだが、それにしても、トドみたいに転がって古典を読んでいたのには呆れた。 「むかし、おとこありけり……」 それでも音読をしているが、相手がないので、時々、独り言がもれる。 ――当たり前のことです。はい。 「少年老い易く学成り難し……」 ――最後まで読めない。終わり! 勉強になっているのか心配になったので、聞いてみた。 「裕ちゃん、あなたは今なんの勉強をしてるの?」 「世界史……」 「嘘でしょう」 溜息と同時に思わず声が出たまではよかったが、そのまま絶句。 私は、仕事に出かける時間になったので、ほったらかして家を後にした。 夕方、重い足を引きずり家に帰る。玄関の鍵がカチと鳴った。暗闇の中を手探りで、灯りのスイッチを入れる。かすかにまた、カチ……と音がした。浮かび上がった台所のテーブルの上は、朝のままだ。 卵焼きのかすが干からびて、カチカチの皿。飲みかけて止めたらしいコーヒーカップの残骸。萎びたレタス。散らばって収拾のつかないパン屑。流しには、コーヒー糟がドロリと黒褐色の地図を描いている。 風呂場を覗いた。今日もだ……。そう思うのもばかばかしくなるような洗濯物の、山……。 疲れがどっと、肩にのしかかる。洗濯機を回して、風呂の湯を張り、台所の片付けを始める。ふっと、人の気配を感じた。炬燵がモソリと動いた。裕ちゃんが炬燵の中から、顔だけ出していた。 「裕ちゃんいたの?」 「そうだよ。お母さん、お帰り」 試験中で早くに学校が引けたらしく、炬燵でうたた寝をしていたらしい。 お母さんが帰ってきたら、驚かそうと思ってなどと、言い訳を始めた。電灯ぐらい点ければいいのにと、キッと娘を睨んだ。 うたた寝の枕もとに、古典の本がまたもや転がっている。 「明日も、世界史の試験があるの?」 何も家事を手伝おうとしない娘に腹を立てて、皮肉をこめた言葉を投げかける。 「明日は、化学だよ。お母さんモルって知ってる」 私には化学なんかどうでもよかった。 「ログ(数学)ならなんとか、思い出せる」 モル(記号)など、どうでもよいと思いながら答えた。 さっきまでのイライラは、裕ちゃんのくだらないおしゃべりで、どこかへ吹き飛ばされてしまった。 「お母さん、君死にたもうことなかれ……だよ」 「……」 「春はあけぼのだよ」 やっぱり古典を読んでいる。 裕ちゃん、勉強してね。そう思っていたら、ピーッと音がした。 「ほら、洗濯機が鳴っているよ。お母さんは、我が家の心臓だから、お願いしますよ」 「心臓? なるほど、いいこと言ってくれるね」 生を受けてから現在まで、休むことなく動いている心臓の存在は考えてみれば驚きである。この先、何年稼動するのか曖昧だが、とりあえず正常に動くと信じ、動け≠ニ語り続けなくてはならない。娘に学費が要らなくなるのは未だ先のことだからだ。 妙におだてられて、洗濯機の中に手を突っ込んだ。 |
◇作品を読んで
ストーリーは、裕子と母親のある日の断片である。 作者は、個性的な二人の登場人物を創り出した。飛び交う二人の会話は一向にまとまりがつかず、すれ違いだが、作者はそれを意識的に組み立てた。その行き着く先は、ペーソスである。悲しいそれではなく、ほのぼのとした明るさが漂う哀愁とでも言おうか。しかし、母と娘の行動や生き方は決して後ろ向きではない。それが、しみじみとした情感を醸し出している。 小説にモデルがあったとしても、その人の完全なコピーではない。小説のテーマに沿った登場人物を読み手に見せなければならないからである。 この作品の作者は、源氏物語蛍の巻で言うように、心に籠めがたいものを語りたいのである。そのことを裕子と母親に語らせている。 |