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  重 箱
                                   森 マコ
                                                                          島根日日新聞 平成17年12月8日及び15日付け掲載

 重箱が置いてあった。
 漆で仕上げたものらしく、真っ黒である。手で触れると、指紋でも付いてしまうのではないかと躊躇うほど艶やかである。明かりも射さないこの暗い部屋で、重箱は、数秒ごとに自ら光を発してピカッと輝く。ひょっとして、電磁波でも出しているのではないか。いや、そうではなくて、ロボットのような重箱なのだろうか。ともかく、自分で光っているのは確かだ。錯覚かもしれない。目をこすった。しばらく違う方に目を向けてから見ても、やっぱり光っている。
 不思議だ。
 中に何が入っているのか。触れてはいけません≠ニいう張り紙も無ければ、周りに人も居ない。重箱はポツンとそこにあるだけだった。開けてみようか。もう居ても立ってもいられなくなった。しかし、開けたとたんに煙が出てきて、女の浦島太郎になっても困る。パンドラの箱のように、この世の悪疫≠ェ飛び出して来ても迷惑だ。
 思案した。
 私だけの部屋だから、勝手に人が入らないはずだけれども、あるいは誰かが重箱を部屋に置いたのかもしれない。どこからともなく湧き出したというような超自然現象は起こり得ないからだ。
 開けてみたいので、立会人を連れて来ることにした。立会人に適当な人間は、友人のKしかいない。
 電話を掛けた。
 立会人は、二人以上がよいだろうということになり、Kは、七十代の元婦人警官を連れて来た。午後一時。ちょうどだった。秒針は十二のところにある。
 一時間が過ぎた。発見した私が蓋を開けることになった。Kは私から斜交いに三歩離れて立ち、デジタルカメラを構えている。元婦人警官は、警察の生活安全課につながっている携帯電話を持って出入り口前で構えている。三人の位置を確かめているもう一人の私がいるのが、滑稽だった。
 心の中で、一、二、三と数えた。
「せーの」
 蓋を開けた。
 重箱の中には、何にも入っていなかった。からっぽ。内側は朱色で、ただの重箱だった。一分間、待ったが変化はない。Kも元婦人警官も、じっと見つめている。
「ただの重箱なのかな?」
 私は呟いた。 
 その途端だった。
「がっはははっは」
 元婦人警官が笑いながら、私の方に近づき、ポケットから角砂糖を一個取り出し、私に舐めてみろと言う。舐めてみたが、普通の砂糖だった。口から取りだした。
「なんのヘンテツもない角砂糖ですね。重箱と何か関係があるのですか」
 元婦人警官は、私が舐めて濡れ、少し潰れて角の取れた角砂糖の残骸をゆっくりと重箱の中に納めて蓋を閉めた。何が始まるのだろう。興味津々、私とKは、黙ったまま元婦人警官の動きだけを見ていた。角砂糖一個だけが入っている重箱を振り始めた。ゆっくり、時には早く。そして激しく振ったかと思えば、突然止める。止めたように見えるが、実際は僅かな振動を与えている。
「よくそんな動きができますね」
 感心してしまい、言葉が出たのは暫く経ってからだった。
「はーい。お、ん、な、のできあがりぃ」
 声と同時に、元婦人警官は、重箱の蓋を外して、私の目の前に突き出した。重箱の中には、溶けてどろどろになった角砂糖の残骸が、こびり付いているだけだった。元婦人警官から重箱を手渡され、私は両手で抱えた。
 部屋の電話が鳴った。
 こんな重大な時に何なのだ。もしかして、この事件に関係があるかもしれない。重箱を持ったまま、受話器を首と顎の間に挟み込む。Kはデジタルカメラのシャッターボタンに指を掛けたまま、私の横に立っていた。元婦人警官は、出入り口を背にして待機した。
「もしもし……」
「ひどいじゃありませんか」
 金切り声が飛び込んで来た。
 一体何のことか。私は誰かにひどいことをしたのか。
「ひどいじゃありませんか。葬式の賄いの味が悪いと言われたんですよ。あなたのせいですよ、私は薄味と言ったでしょう!」
 隣保のO夫人からの電話だった。
 一週間前に、私は葬式の手伝いに出ていた。葬式が町内であると、隣保で助け合う。役割分担はだいたい決まっている。男性が葬儀を取り仕切る慣わしは、何十年も変わっていない。女性は裏方である。年齢の高い順番から、役割が決まっている。長老のO夫人は、台所を取り仕切っていた。口も立つが腕も立つ。賄いの間中、大釜の前に座り、やかましく指示を飛ばしていた。
「大根漬けは、丸く七ミリに切って、三列に並べて。葉っぱは、全て捨てるの。味は塩だけで、匙にすり切り一杯。参列者の、あの男の方に煎茶を一つ。辞退されても、もう一度お茶を勧める」
 百回以上も、同じことを言い続けた。当たり前のことでも、勝手に判断してはならなかった。汁が鍋からこぼれたら、拭いてもよいでしょうか? と聞かなければならなかった。四日間の勤めではあったが、私は、気を抜く暇がなかった。スズメ蜂の巣のそばに立っているような感じだった。スズメ蜂は色に反応する。私は黒い服を着て、ひたすら腰を低くしていた。伺いを立て、口を挟まず、声を出さないように気を付けて、葬式の賄いをやったつもりだったのに、O夫人は、一体私のどこが気にいらなかったのだろう。女王蜂O夫人が、何に反応したのかますます分からなくなってくる。O夫人の電話からの声は、終わりが無かった。長かった。
 喋りまくるO夫人は知らないのだ。私の家の電話は音声拡大装置になっていることを。しかも、警察署に直結していることを。
 散々に葬式でのクレームを言ったために気分がよくなったのか、五十分まくし立ててO夫人は電話を切った。その間、私はぺこぺこと頭をさげていた。顔は赤くなったり白くなったりだった。手は堅く握り閉めていたので血の色は失せていた。受話器を置くと同時に、頭がボーッとなり、気分が悪くなって倒れそうになった。
 Kは、電話中の私の様子をデジタルカメラで撮り続けてくれたらしい。Kの存在に気付くのには相当の時間がかかったように思えた。我に返ったのは、かなり時間が経ってからのことだった。重箱に気付いた。重箱は私の足元にあった。興奮していた私は、いつの間にか重箱を床に下ろしていたのだ。
 元婦人警官が、無表情な顔を見せて寄って来た。仏様のようでもあるし、怒っているようでもあった。泣いているのだろうか、声が震えている。
「賄いのことは、男には言えないし、言っても分からないと思いますよ」
 怒鳴っていたO夫人の声は、あまりの大きさで受話器から洩れ、元婦人警官に聞こえていたのだ。
「あなたも、重箱の中の砂糖を舐めなさい。何回も舐めてみることですよ。さっき言ったでしょう、女の出来上がり……って」
「……」
「自分で転がっては駄目。あなたは、まだまだ修行が足りないの。もう少し重箱の中で転がされた方が……いいようね」
「……」
「転がされると砂糖の味が、つまり、あなたの色が分かってくるわ。嫉妬は駄目よ、判断が鈍るからね」
 呆れた顔のまま、Kと元婦人警官は帰っていった。時計を見た。午後一時と十秒だった。
「えっ、たった十秒しか経ってないの?」
 自分の声が信じられないような音になって、耳の中で跳ねた。重箱だけがポツンと残り、ピカッと光った。

◇作品を読んで

 このような題材は、作者の独擅場である。SF的でユーモラス、オチを計算し、起承転結がしっかりしている。それでいて、「うん? 何だろう」と考えさせられる作品を書く人である。
 この作品は、数回にわたって書き直された。第一稿は、「はーい。お、ん、な、のできあがりぃ」で終わっていた。何人かに読んでもらったが、意図が伝わらないということから、後半が追加されたのである。
 ともあれ、作者は楽しんで書いたということが、よく伝わってくる。文章を書く基本は、そこにあるのではないだろうか。
 自分が大事にしていること、悲しいこと、嬉しいこと、辛いことなどを文字にしようと思う。それが出発点である。その次に、読み手のことを考える。ということは、いかによく分かるように書くかを考えることである。