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掌編小説   遠い日の夢   原  美代子
                                                                            
                            島根日日新聞 平成14年10月16日掲載

「講読をお願いに来たのですが、断られるかと思いました」
 カメラを手にした青年が、玄関の壁を指差していた。『訪問販売お断り』の張り紙である。圭子が受け取った名刺には、(S新聞 記者)と印刷されていた。
「新入社員の研修中なんです」
 グレーのスーツの三つボタンをきちんと止め、それが細い体をさらにスマートに見せている。爽やかな感じだった。
「取ってあげるわよ。頑張って……」
 襟元の社員バッチを見ていた。
「あ、ありがとうございます」
 直立不動のまま最敬礼をした。その青年に、圭子はかつて高校の新聞部で一緒に学校新聞を作っていた先輩の面影を重ねていた。その先輩と将来は共に新聞記者になろう、と夢を語り合ったのだ。だが、その夢はかなわず、圭子は父親に言われるままに結婚し、家庭に納まってしまったのである。先輩の彼は、気象観測官になったと聞いた。
「紫陽花がきれいですね。写真を撮らせてもらっていいですか?」
「この花の恋人……知ってる? 雨なのよ。可愛そうに降らないわねえ」
 翌日。ひと雨来そうな夕刻である。
「ありがとうございました。夕刊です」
 玄関に響いた大きな声に圭子は驚いた。慌てて走り出てみると、昨日の記者だった。
「配達……もするの?」
「小さな新聞社ですから……」
 手渡された新聞の第一面に紫陽花のカラー写真が色鮮やかに印刷されていた。
「雨を待てずに咲いた紫陽花。気象台が梅雨入りを発表」
 大きな文字のキャプションを声を出して読んだ。
「配達や営業もして、記事も書くの?」
「ええ、小さな新聞社ですから……」
 同じ言葉を二度聞いて圭子は笑い、(応援する)と決めた。突然、紫陽花に誘われたかのように青い雨が来た。六月の慈雨に濡れて帰っていく若い記者と紫陽花が輝いて見えた。不意に、どこかで天気図を書いているだろう先輩の顔が浮かんだ。
 数日後。あるパネルディスカッションを聴きに行った圭子は、会場で黒っぽいジャケットの袖を捲くり上げた若者が、カメラのシャッターを切りまくっているのを見た。いつか出会ったような、そんな気がした。
 その日の夕刊に、写真付きの記事が載った。圭子は(あ……、あの)と呟いた。新聞を配達し、購読料の集金もすると言っていた青年と、会場で出会った若者が重なった。
 いつもの配達時刻に庭掃除をしながら、圭子は新聞の届くのを待っていた。傍らの箱には畑で採れた二個のスイカが入れてある。バイクの音がした。
 さらに数日後。圭子は、記者が交代で書く「取材メモ」というコラムを見付けた。
 ――地方の小さな新聞社は、優しい購読者に支えられています。夜の八時、校正をしながら同僚と差し入れのスイカを食べました。冷やしてあるから冷たいはずなのに、温かいものが胸に沁みこんできました。――

 斐伊川河川敷をジョギングしていた圭子は、犯罪捜査や行方不明者捜索などに出動する委託警察犬の審査会に出会った。
「すみませんが、ずーと下がって見てて下さい。犬の集中力がなくなって困ります」
 愛犬を連れ、ゼッケンを胸に下げて参加していた男の訓練士に叱られた。遺留品の臭いから誰の持ち物かを嗅ぎ分ける臭気選別などの審査を受けに来ているから当然だ。日に焼けた顔、逞しい腕や脚、きびきびした動作が眩しかった。
「まだ、準備中ですから、三十分位しないと始まりませんよ。合格するかな、と期待してるんですけどね」
「毎日の訓練は大変でしょう」
「始まるまで、僕が書いたこの絵本を読んでいてください。資金がない中で作ったもんで、よかったら買って下さい」

「そうだ、あの本の宣伝をして上げるつもりで記事を書こう」
 本棚から『つれてかえってうんちくん』の絵本を引き出した。
 表紙に小首を傾げた子犬の絵が書いてある。語りかけるような文と可愛らしい絵で、なぜ糞を片付けないといけないかを分かりやすく説明してある。
 ペットのマナーを絵本に……。松江愛犬訓練所長で一等訓練士。財団法人日本動物愛護協会から功労者表彰を受賞した。出雲保健所で犬の接し方について講義をする機会があった。対象が小学生ということもあり、興味を引くため「ウンチ」を話題にした。子も達は熱心に聞いてくれた。「動物に関心がある子どもに訴えるのが一番効果的。小さな子どもはお化けやウンチの話が大好き。この時期にマナーを覚えた子どもが大人への啓発をしてくれるのではないか」というのが、絵本を作った理由だとある。

 圭子は、学生時代に描いた書くことへの夢を取り戻すために、文学教室に通い始めた。その講義で、「新聞記事の基本は、5W1H」と聞いたことを思い出した。
 圭子は、パソコンの電源を入れ、窓から空を見上げた。梅雨空に黒い雷雲が流れる。測候所で働いているかもしれない先輩はビューフォート風力階級を調べ、あの若い記者は今日の記事を書いているのではないだろうか。
 圭子はワードの画面にキーを叩いて文字を打ち込み始めた。遠い日に描いた夢に向かって……。


講師評

 作者が実際に経験したこと、新聞記者になりたいと思った若い時代の思いとが下敷きになっていると思われる。
 この作品は、新入社員の記者が来たというエピソード、別の日に警察犬の審査会に出会ったことの二つが結び合わされている。これは、小説作法の一つであるとも言える。ある事件と全く異なるものを結び付けると、ストーリーができあがる。
 ネタがないので書けないと、よく聞くが、それはどこにでも転がっているのではないか。どう面白く料理するかである。言うことは簡単だが、実は難しい。自戒でもあるのだが、必死の思いで考えねばならない。
 この作品は、巧みな会話と的確な言葉が、うまく組み合わされ、流れるような文章に仕上がった。
 面白いストーリー、生き生きとした会話と描写を考える。それが、小説を書くことの基本ではないだろうか。