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  万葉の花・芽子
                                   原 正雄
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 05・10・6のオープンを間近にした、斐川町の荒神谷博物館。その一帯は昭和五十九年の銅剣等の青銅器出土によって整備された、荒神谷遺跡公園が広がっている。
 二十七、五ヘクタールの広さを持つ公園は、四季折々を彩る樹木や山野草が数多く植えられ、紅(黄)葉には少々間があるが、それぞれの装いで、わが世を謳歌しているようにも見える。
 花は小さく貧弱と言っては悪いが、強烈な癒しの香を放つキンモクセイ、果実が弾け赤い種子粒が目を引くコブシやマユミ、ピラカンサの紅真っ赤な実、紫の小さい実がたわわなムラサキシキブ、どんぐりの実を落とした腑抜のクヌギ、実はトチ餅となるトチノキ、久木(久木という地名あり)とも呼ぶアカメガシワ等、飽きることがない。自然観察の宝庫とも言える程に多彩で、ネーム札も付してある。
 傾斜地に点在するハギが目に付いた。
 自らが風を起こして揺らすようなしなやかな枝葉。強風にも耐え、折れずにいつも頭を垂れている。華やかな主役の陰で、ひっそりと叢生しているが、その姿は往く秋の物哀しさを暗示している。
「はぎはおじいさんのお好きな花でした。」
 不確かではあるが、国民学校三年生で習った国語教科書の書き出しである。
 幼い脳裏に、なぜ宿ったのかは分らないが、恐らく「おじいさんのお好きな花」のフレーズが印象に残ったのかも知れない。
「はぎはおじいさんのお好きな花」と著す作者は、おじいさんの心が読み解ける年代のような気がする。何となく、地味な花と草姿を風雅にとらえるには、年輪が必要であろうからだ。
 夏の炎暑に立ち向って力強く咲くヒマワリと違い、紅白混在の小さな萼を持つ枝葉は、微かな風にも躍らされる。ハギは風によってその真価が発揮されるといってもよい。
 殆どの植物は、日照時間の長短によって開花する性質があり、夏至を過ぎ、昼が短くなると、ヒガンバナに次いでコスモスやハギ等の秋の花が咲き乱れ、枯れすすきのオバナで冬を迎える。
 今では秋の花と言えばキクかも知れないが、古の人々が最も愛した花は、ハギだったようである。『万葉集』に詠まれたハギの歌は一四二首で、万葉植物一六〇種中では最も多く、サクラの三倍に近い。(湯浅浩史著『植物ごよみ』による)

 秋風は涼しくなりぬ馬並めて
     いざ野にゆかな芽子が花見に(万葉集巻一〇ー二一〇三)

 わが屋前の芽子の花咲けり見に来ませ
     今二日だみあらば散りむ (万葉集巻八ー一六ニ一)

 花見と言えば今ではサクラを連想するが、万葉人は、はウメとハギだったと言われているほどに、ハギに魅力を感じ、家畜の飼料や垣根、屋根ふきの材料として、庶民の暮らしにも溶け込んでいたようである。
 マメ科植物のハギは山野に自生し、マメ科植物特有の根瘤菌による空中窒素を固定して旺盛に育つ植物で、時には傾斜地の土留めの役割も果たしている。
 万葉の歌人山上憶良は「芽之花 乎花(薄) 葛花 瞿麦之花 姫部志(女郎花) また、藤袴 朝皃之花(桔梗)」(万葉集巻八ー一五三八)を秋の七草と呼び、ハギはその筆頭にしている。
 食用の春の七草と違って、秋の七草は観賞用として選ばれている程に趣があるようだ。今でも日本庭園には似合うのか、あちこちに植えられている。万葉人は野山で愛でるだけでなく庭にも植え、ハギを詠んだようであり、古刺によく見られるのは、その名残であろう。
 漢字の「萩」は、『万葉集』に「芽子」となっていて、『出雲國風土記』に初めて「萩」という文字が見られるようであり、出雲国の文化が窺える。
 千数百年以前の古人が培った、風雅な万葉の文化。そこではハギの存在が不可欠なものとして、歴史を刻んできたのであろう。
「萩」という漢字の初出の地という出雲国。万葉の芽子文化と銅剣の弥生文化。雅とロマンを今に伝える、先人達の声が聞こえて来そうな荒神谷遺跡公園は、今、自然と人々の交わりで賑わい、秋酣である。

吾屋前之 芽子花咲有 見来益
今二日許 有者将落

秋風 冷成奴 馬並而 去来於野行奈
芽子花見尓

◇作品を読んで

 作者は、今年の十月に開館した荒神谷博物館を訪れ、傾斜地に点在するハギに目を留めた。
 万葉集に登場する植物を万葉植物と言っているが、その中のひとつであるハギを見て、子どもの頃に読んだ国語の教科書を思い出す。この随筆を書こうと考えた動機である。
 作者は万葉集を繙いてハギの歌を調べ、更には出雲國風土記との関連にも触れている。
 文中、アカメガシワ(赤芽柏)は「久木」という名もあると書かれている。ちなみに、その名は斐川町久木の公民館と健康広場の名称に使われている。地域では、久木の名を何かの形で残そうと考えられているようだが、作者は、おそらくそれらのことを踏まえ、万葉集という窓を通してハギと歴史の関わりに思いを巡らせたのであろう。
 もちろん、万葉集にも、久木を詠んだ歌がある。