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  オペラ『魔笛』出雲公演
                                   佐原 茜
                                                                          島根日日新聞 平成17年10月27日付け掲載

 久しぶりにオペラを観た。モーツァルト晩年の作品『魔笛』である。心地良いひとときをすごした。今も耳の奥でコーラスが響き、脳裏に舞台の情景が蘇る。
 クラシック音楽大好き、モーツァルト大ファンの私は、プレ・セミナーオペラ『魔笛』セミナー≠燻講している。
 王子タミーノと王女パミーナ、鳥刺しパパゲーノとパパゲーナ、二組の恋の成就に、伝道師ザラストロと夜の女王が絡む話である。
 モーツァルトは、フリーメーソンに所属していた。十八世紀、富裕階層や知識階層の間に流行した、公然の秘密結社だ。自由で世界的な友愛精神を理念とする。このオペラは、その高度な思想が現されていて、哲学的な作品なのだそうだ。とはいえ、当時のヨーロッパのこと、黒人蔑視、男尊女卑、階級差別の考えが、台詞の端々に感じられる。私には受け入れられない。しかも筋立ては支離滅裂だ。
 単に、眼を楽しませ、耳を気持ちよくさせてくれる音楽として鑑賞した。オペラはそれで良い。アクション映画や歌舞伎の話の筋がいいかげんなのと同じだ。
 パパゲーノが良かった。
 優しく包み込むような、柔らかいバスだった。ザラストロもバスなのだが、こちらは威厳のある重低音の響きだ。あまりにも声質が違うので、パパゲーノはバリトンかと思ってしまった。プログラムを見なおして確かめた。
 難癖をつければ、王子タミーノより上品な歌声は、役柄と合わない。自然人なのだから、もっと粗野で良かったかも知れない。しかし、パパゲーノ役をした歌手の声≠ニして、聴き入った。女王の女官三人との重唱は、甘いハーモニーで私の心に響いた。
 パミーナの声も伸びやかで印象的だった。澄んだ、それでいて幅のあるソプラノだ。独唱も重唱も良かった。 
 市民会館は、ほとんど満席だった。出雲に、これほどクラシック音楽ファンがいるのかと驚いた。私の回りには、「モーツァルトがねえ……」などと話せる人などあまりいない。
 正味三時間の上演だった。コンサートは、始まりから終わりまでがたいてい二時間なのだから、かなり長い。腰が痛くなった。聴衆はみんな、よく我慢したものだ。
 ドイツの歌劇団の上演なので、歌はもちろん台詞もドイツ語だ。大丈夫。日本語が読めれば楽しめる。字幕スーパーがあるのだ。
 舞台の両側に柱状の電光掲示板立ててあり、そこに、台詞の日本語訳や状況の説明が書いてある。左右は同じなので、視線の都合によって、どちらかを見れば良い。ドイツ語やストーリーを知らなくても、舞台上で何をやっているかがわかる。
 おまけに、簡単な言葉なら聞き取れるから、ドイツ語の勉強もできる。「ナイン」は『いや』、「シュティール!」は『静かに!』という具合だ。
 私は最低ランクのB席だった。負け惜しみではなく、充分楽しめた。大きなホールだと、安い席は舞台からあまりにも遠すぎて、字幕スーパーが読みにくい。オペラだけではなく、オーケストラでも舞台と自分の席が別世界に感じられる。ところが、出雲市民会館程度では、程よく舞台から遠い。だから、人の動きと字幕を一緒に見ることができ、臨場感も味わえる。大枚はたいてS席に行く必要はない。
 聴き所のひとつに、夜の女王のアリア≠ニいうのが第二幕にある。
 夜の女王は、ソプラノより高い声部のコロラチューラソプラノだ。このアリアでは、三点fの音を出さなければならない。高音の女性の金切り声よりまだ高い音だ。声の限界域と言われている。
――地獄の復讐は我が心の中で燃えたぎり……
 こんな意味のことを、怒り狂いながら、ものすごく速いテンポで歌うのだ。
 残念だった。声量がなさすぎた。
 もちろん、プロなのだから、きちんと歌えている。オーケストラ相手にノーマイクで、ホールの後ろまで聞こえるように歌うのだから、並みの声量ではない。だが、他の歌手たちに比べたら、聞き取りにくい小ささなのだ。
 最初、第一幕で登場したのが舞台の奥だった。それで小さく聞こえるのかと思っていた。ところが、第二幕で、前に出てきても相変わらず声が小さい。注目のアリアは、まったく迫力を欠いていた。歌い終えた時、「やあ、なんとか無事に歌いきれましたね」と、聴いているこちらが、ホッとした気分になった。
 生のコロラチューラを聴くのは、初めてである。考えた。今まで聴いたCDや放送は、音量が調節してあったのかも知れない。コロラチューラの音量は、きっと他の声部のそれに比べて小さいのだ。
 さらに、姿も小さい。
 夜の女王には悪魔的雰囲気が欲しいのに、あまりにも小柄なので怖くなかった。おとなの間に、黒装束のちんまりとした子どもがいるようだった。白いドレスを着た娘のパミーナが傍に立つと、完全に圧倒されていた。オペラは見てくれも重要だろう。
 目にも耳にも、夜の女王は存在感を訴えてくれなかった。
 ヨーロッパでも、コロラチューラの人材は少ないのだろうか。オーディションで選ばれたというのだから、プロの目や耳にはこれで良いのかも知れない。
 オペラの公演は、経済的にも作業的にも大変だという。国内の上演は大都市がほとんどだ。
 コンサートへは何度も行ったっことのある私だが、オペラは数えるほどしか観たことがない。
 出雲のような日本の片田舎で、海外の歌劇団の公演を観ることができるとは、しあわせなことだ。

◇作品を読んで

 この作品のような文章は、材料がなけねば書けない。いくら腕のいい料理人が居ても、素材がなけねば味のよい料理は出来ないと同じことである。料理の材料と作り手の腕が必要だということになる。
 書くということで言えば、腕は「ものの見方や考え方」であり、材料は情報、つまり、「具体的な事実」である。この二つがうまく組み合わされれば、よい文章になるのではないか。そのためには、観察する眼が大事で、別の言葉で言えば注意力であろう。臨場感につながるはずである。
 作者はオペラに造詣が深い。出雲市民会館で観たオペラの様子を伝えると共に、その知識が、うまく取り入れられて文章が構成されている。