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  香木の森と水の国
                                   遠山 多華
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 朝、温度計を見る。晴天で、気温は二十六度を指している。快適な行楽日和になりそうだ。仲秋の九月二十日、秋のリクレーションで、香木の森公園≠ニ水の国≠ノ行く。
 いつものように朝刊を開くと、香木の森の記事が写真入りで一ページを埋めている。未だ行ったことがない。何か予備知識が欲しいのだけれども、探す手段はないだろうかと心に掛かっていたところだった。その矢先の記事で驚いた。しかも、当日に出会うとは奇縁である。得たりとばかり、読み漁った。幸先よしと、心温まる思いである。
 親切な家までの迎えに甘え、出雲市駅で二台の車に分乗して出発する。途中で、一人が加わり、計九名の同勢になった。車は、二百六十一号線を西に向かってひた走る。山の狭間が続き、海も見えない。ただただ西側は山と谷である。窓の外には、薄が歓迎するかのように揺れている。ところどころに人家が点在し、行き交う人もない。バスは通っているらしいが、過疎地はどこも同じで、回数が少なくて不便だろう。住めば都という。不自由を感じられないのかもしれない。
 車内は女ばかりで、姦しい。世間話や趣味のことにまで話は及んだ。同じ趣味だから腹を割って、仲間同士で遠慮がない。私は無言で耳を傾けて聞くのみだが、時々、相槌を打つ。退屈はしない。運転する人はさすがにあまり口を挟まない。気分が散漫になれば、運転の手が疎かになるかもしれない。後席に乗せてもらう方は屈託がない。運転者にすまないと思うこともあるけれど……。
 たまたま人家の近くで赤く燃えている彼岸花を見た。彼岸に咲くから彼岸花だが、曼珠沙華と言えばまた感覚が違う。
 子どもの頃、堤に群れをなしている花を手折り、ポキポキと折って首飾りにして遊んだ想い出が蘇る。白い汁には毒性があると言われているが、そんなことには無頓着だった。
 二時間の行程を退屈しないまま、「水の国」に着く。水を湛えた広い池に鯉が群れをなし、水面に背鰭を立てて歓迎の意を表してくれた。
 桜江町出身の松林宗恵の映画記念館がある。古い映画の魅力に触れる。遠い昔の俳優に会い、かつてのファンらしい人からのため息も聞こえる。
 香木の森公園は、さすがに広い。名に恥じぬとおりで香木の種類も多く、ハーブ満開の香り漂う中を散策する。三々五々と若い男女の楽しげなグループも人目を引く。ここもまた新鮮な癒しの別天地である。
 段差のある所では、「足元に気をつけて」と、年長の私には嬉しい声が掛かる。
 公園の一角で椅子を見付け、「野外川柳会」が開かれた。屋内とは違う雰囲気で、人目も憚らぬ笑い声の一刻が楽しい。
 レストラン「香夢里」で昼食となり、胃のご機嫌をとる。食事をしながらの話もまた楽しい。満腹感に伴って、少しばかりの疲労感。
 いわみ温泉霧の湯、香遊館があるが、いかに温泉好きな私でも時間的にも今から入る気にはなれない。皆さんも、温泉はどこでも入ることができるという気持ちらしい。
 予定の時刻を少し過ぎ、邑南町に「さようなら」と別れを告げた。
 途中の喫茶店でコーヒーと冷菓。口を労い小憩をする。さすがに帰りは、皆、口が重い。
 多伎から、それぞれの都合で別れ、海岸線を走る。晴れた日の日本海の展望、それも夕陽を鑑賞すれば格別だろう。
 リーダーの緻密な気配りに感謝し、幸福感に満ちた一日を満喫した。和気藹々の中に明るい希望を膨らませるリクレーションの一日であった。

◇作品を読んで

 作者は秋のある日、邑南町矢上にある香木の森公園と水の国に行った。どうやら川柳仲間の一日の旅のようである。どんな川柳で楽しんだのだろう。
 作品は分野で言えば、紀行文というところだろうか。紀行文は、旅の途中で起こった出来事や見たり聞いたりしたことを書き、自分の感想も入れる。旅が長期なら、旅行記ということになる。旅先で見たり、聞いたり、感じたりしたことを書くわけだから、そんなに難しいものではない。
 出来映えの善し悪しは、表現力である。美しい景色と感じても表現が拙ければ読み手に伝わらない。つまりは、臨場感のある文章かどうかである。
 読む人が書き手と一緒に旅しているような錯覚を持つことが出来れば、紀行文として優れていると言えるだろう。