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  ミニロトという名の招き猫
                                   宇羅 志真
                                                                          島根日日新聞 平成17年8月4日付け掲載

 昔、むかし、小学校の、確か五年生だったと思うのだが、当たる確率≠ニいう算数の勉強をしたことがある。私は算数や理科より、体育や図工の方が断然好きだった。だから、その頃の算数の内容がはっきりとは思い出せない。
 確率とは、ある条件のもとでその事が起こると予測される度合を数量化して表わしたものだが、小学校の算数は、馬券が当たるとか、天気予報が当たるかどうかなどという変な内容だったと思う。確率という言葉からすると、何か違うような勉強だった。
「へー、確率って、計算で求められるのだなあ」
 驚いたのだが、大人になってみると、そんなのは当たり前のことだった。吃驚するほどのことではない。確率でなくても、ある程度、経験で可能か不可能は分かるものだ。
 宝くじも買わなければ当たる可能性は無い。これこそ当たる前、いや違う、当たり前の話だ。そう思えば、気が楽だ。交通事故に遭遇する確率は、百パーセントだと、いつも思っている。もちろん、二十四時間、そんなことばかりを考えているわけではない。他に考えることがありすぎて、することもありすぎて、直ぐに忘れてしまっている。
 早朝に配達された新聞の運勢欄を読んで、「ほほー」と思った先から、もう内容を忘れている。夜になって、もう一度読んで、またもや、「ほほー」と言っている自分がおかしい。
 ある日のことだった。ジャスコの宝くじ売り場の前を通りかかった。ミニロト売り出し中≠フ文字が、偶然目に入った。
 ミニロトとは、一口が二百円の宝くじのことで、その日の内に当選番号が分かるらしい。早い安いが売り物だ。一等は一千万円。それに、ちょうどその日、ミニロトを買うと、招き猫のキーホルダーのおまけが付くという。
 早速、ミニロトを一口買った。おまけの招き猫を宝くじと同じくらいに大事にして家に持ち帰った。
 どこの家庭でもそうなのだろうが、もしも一千万円が当たったらという話で、大いに盛り上がったのは言うまでもない。
 娘達は半分を貯金して、残りで学校の授業料を払い、またその残りで、焼肉を食べて……と言う。若いな。
 お母さんなら、先ず、あんた達の学校の授業料をドーンと払って、残りでダイヤモンドの指輪を買って、世界一周旅行をして……。オバサンだな。
 家族の皆は、はなから当たるなどと思ってもいないので、好き放題、勝手ホウダイ、言いたい放題である。
「でも、本当に当たったらどうする?」
 話は、また振り出しに戻る。
 上の娘が言った。
「当たるはずがないでしょ」
 もう一人の娘も言う。
「二百円のミニロトで一千万円が当たったら、罰が当たるよ」
「そうだよね。何もしていなくても、罰が当たる時だってあるものね」
 私は、そう言いながら、まるで上がりのない双六のようだと思う。
 同じ話を繰り返しながらも、またひとしきり、当たったら何にお金を使うかと言い合う。
「お母さん、もしも、一千万円が本当に当たったら、ショックのあまり心臓麻痺を起こすかもしれんよ」
 下の娘が言った。
「そうだよね、一千万円当たって、嬉しさのためにショック死……」
 上の娘が、追い討ちをかける。
「かっこ悪くない?」
 私は言い返す。
「かっこ……いいよ。カッコ……イイヨ」
 だんだんと、相槌を打つ声が弱々しくなってくる。
 次の日、起きるが早いか、娘達と私は頭を寄せて、新聞のミニロトの当たり目の発表を見た。
 確率はゼロだった。
 当たらなかった。
「当たるはず……ないよね」
 私達は、声を上げて笑った。
「二百円で、ずいぶんと楽しませてやったぜ」
 冷蔵庫の扉にセロテープで貼り付けられている、ミニロトのおまけ招き猫がニヤリと笑って言った。

◇作品を読んで

 ある日、作者は二百円のミニロトを買った。それで一千万円が当たるのである。購買意欲をそそるおまけもついていた。当たる確率は、ゼロには近いがゼロではない。これは買うほかはない。当たるはずはないと思いながらも買ってしまう気持ちに、読み手は共感を持つ。
 その夜、夢が語られ、どこまでも膨らんでいった。そして翌日、ミニロトは見事にハズレた。
 どこにである風景だが、作者は招き猫を脇役にして、ユーモア溢れる作品に仕上げた。
 冒頭、小学校で勉強した確率の話を書き、結末部分で、その材料を再登場させる演出がいい。後半の盛り上がる場面で、繰り返される切れ味のよい短い言葉も効果的に使われている。
 ミニロトのおまけとして連れて来られた招き猫が、笑っている顔が見える。
 こういう作品は、理屈を言わず読んで楽しむことである。