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  振り返る六十年
                              遠 山 多 華
                                                                          島根日日新聞 平成17年7月13日付け掲載

 梅雨に入っても一向に雨がない。
 畑の夏野菜などの灌水も、川が涸れて思うに任せない。私の家では山水が湧き、専ら無料の水で野菜畑を潤すことが出来る。山の麓に住む恩恵である。
 甘藷は六月の初めに植えた。雑草を上に掛け、水を二、三回注いだだけで、緑の蔓を伸ばし始めた。適当に切った蔓を挿しただけで根付くから、強い生命力を持っている。
 この頃、幼稚園などの学習の一環として、篤志家の畑を借りて甘藷の栽培を始めるところがある。秋の収穫を目指しながらの情操教育の一つかと思う。
 今から三百年前、享保十七年に起こった石見飢饉の時である。代官の井戸平左衛門が、薩摩国から救荒作物としてサツマ芋を導入し、危機を救ったということから、芋代官として崇められたという逸話も残っている。 
 食料不足の戦時中は、代用食でもあった。畑はもちろん、荒地を開墾し、小学生も「決戦農場」という名で甘藷を植えた。味や質よりも量で、収穫の多い「護国」が主に作られた。
 芋はお粥に入れて食べた。朝食には、たっぷりの野菜と共に、すいとん汁を啜った。芋のほどよい甘みで美味しく、今でもその味は忘れられない。芋は代用食の最たるもので、南瓜なども副食というより代用食として珍重された。夏豆などもご飯に入れて食べた。今では考えられないことだが、主婦は知恵を絞ったものである。
 蓬でさえそうだった。堤に猫車を押して摘みに行き、茹でてから干し蓬にし、団子にして焼いて食べた。蓬は血液を浄化する作用という効用もあったが、主婦の真剣な知恵だったもしれない。意外な知恵のお陰で、長生きが出来る私の体質が作られたのかとも思う。
 昔のことだと一笑に付されるかもしれないが、卒寿の追憶に浸る。
 食は、こうして凌いだものであるが、衣の方も不自由だった。衣料切符という衣料の配給制度があった。その範囲では、間に合わない。リサイクルの知恵の出番であった。姑のモスリンの長着が、ワンピースに化ける。昔の着物は柄が小さく、リサイクルには相応しい。評判はよかった。
 私は洋裁など手掛けたことはなかった。大連に住んでいた頃に、近所の奥さんと親しくなり、ささやかではあったが、初めてミシンを求めて独学をした。
 終戦前の昭和十八年に、大連から引き揚げたことも運がよかった。家財といっても、いずれ引き揚げることを前提にしていたので、必要以外の物は買わずに最小限度の生活をしていた。だから、惜しい家具もなかった。そのために、いわば全財産を持ち帰ることが出来たのだ。ミシンもそうだった。そして、帰ってからもリサイクルが始まった。祖母の黒いコートでスーツを作り、近所の祝言などに臆面もなく着て行った。今にして思えば、冷や汗ものである。
 運良く手に入った生地で、二人の子どもの学生服、学生帽など、全て手作りをした。配給の大和木綿で夏の六つ接ぎの帽子も作ってみた。評判がよく、頼まれて紫外線よけの帽子も頭囲に合わせ沢山作った。主人のハンチングも作った。ご機嫌で、お気に入りとして冠ってくれた。調子に乗って、夜もミシンを踏んだ。 戦中、戦後の衣食はこうして知恵を絞り、何とか切り抜けることが出来た。
 そして、高度成長のよき時代が来た。家も新築し、庭も造った。
 目まぐるしかった六十年の回顧に浸る。
 主人は、出雲平野を一望出来る位置に眠っている。

 家族は出掛けて、誰も居ない。飼い犬のコロが、けたたましく吠えた。十一時半に鳴ったサイレンに呼応したのだ。
 ふっと夢から醒めたように、自分を取り戻した。

◇作品を読んで

 長い人生を歩んできた作者には、いろいろな思い出がある。ある夏の日、誰もが出掛けてしまい、静かになった部屋で回想に耽る。雨が欲しいと言っているような庭や畑を眺めながら、戦時中の代用食になっていた甘藷のことが心に浮かぶ。思いは広がり、着る物にも事欠いた戦後に及ぶ。
 思い出というのは、過去の体験や品物にまつわることばかりではない。過去ががよぎる胸の中で、共に過ごした人と、その周辺に舞う思いのことでもある。一瞬、人は現実から離れ、別の世界の住人になる。
 作者は数々の思い出の中に、再び亡夫を見る。思い出は語ることによって、心の中に住む人と共に、それを分かち合うことでもあるかもしれないと、結びの数行から思うのである。