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  春の夜の夢
                              佐原 茜
                                                                          島根日日新聞 平成17年6月23日付け掲載

 目の前で起こっていることが信じられなかった。突然、晶子が司にしなだれかかったのだ。
 何よ? 何かのまちがいでしょ! 眼の錯覚よ。現実のはずがない。夢なら覚めてよ。
「キスして」
「いいの?」
「うん」
 ひとこと、やめてと言えば、二人はそうしたかも知れない。だが、声が出ない。おろおろするばかりだった。
 あと三日で大学の卒業式という日、ゼミのお別れコンパをしたときのことだ。三年生二人、四年生は私一人という少人数のゼミだった。三年生の司と晶子は自宅通学だ。学校近くのアパートに住む私の部屋が、集まりやすいという理由で、開催場所になった。もう春休みに入っていたので、アパートの住人達はほとんどが帰省していた。少々騒いでも、迷惑のかかる心配はなかった。指導教官も招いた。
 四畳半のワンルームである。六十センチ角の小さな炬燵を囲んで、簡単な料理を食べながら、とりとめのない話をしていた。もちろん飲物はアルコールだ。先生が上座、その右が司で晶子は左、私は入り口に近い場所に座った。
 先生は大量の食料や飲物を持ってきてくれたが、一時間ほどで帰って行った。
 気が楽になり、酒を飲むピッチが早くなった。司はビール、晶子と私は缶チューハイを飲んだ。そのうち、先生が差し入れてくれたウィスキーを、三人の胃の中に、きちんと納めようということになった。オンザロック、水割り、面倒だ、ストレート。
 私は自分の部屋だから、酔いつぶれてもかまわない。司だけを近くの男友達のアパートへ行かせ、晶子は泊めてもよかった。
 どれくらい呑んだだろうか。ウィスキー瓶がほとんど空になっていた。
 司が先生のいた場所に移った。壁があるので、もたれることができるのだ。
「ここが楽だ」
 晶子が立ち上がった。トイレに行くのかと思っていたら、司の横に座るではないか。そして晶子は言ったのだ。
「キスして」
 司の顔が晶子のそれにおおいかぶさる。
 見ていられず、目を伏せてしまった。
 司がささやく。
「キスしたことあるの?」
「うん、自動車学校で知り合った人と……」
 なんとふしだらな! 司は晶子の恋人ではない。
 司と私は仲が良く、ゼミの下調べを一緒にすることがあった。私を先輩として尊重し、一年よけいに勉強しているということもあり、レポートの書き方など、いろいろと訊いてくれた。
 晶子は言いたいことを口にするタイプだ。司と私にお似合い≠セと言ったことがある。
「先輩には悪いけど、僕、年上には興味ありません。それに一年生の彼女がいます」
 司はそう言った。恋愛感情はなかったが、それでもショックだ。
「私も……年下はパスよ」
 負けずに言った。実際は、同学年ではあるものの八か月年下のボーイフレンドがいる。
 晶子は、のんびり屋の司や、気の利かない私にいらいらすることが多い。送別会を、しかも私の部屋で、先生を呼んでしようと提案したのは晶子だ。
 一瞬悩んだ。守る住人はいないが、一応、男子禁制の女子学生アパートである。
 まあ、いいかと思った。先生はもちろん、司も紳士だと信じていた。大家さんにばれてもかまわない。もうすぐ出て行く身だ。引越しのときには、ボーイフレンドに手伝ってもらう予定もあった。
「食べ過ぎたかな。ズボンがきついの……」
 晶子が言った。炬燵が大きく揺れる。ファスナーを下げる音がする。いたたまれなくなって部屋の外へ出た。
 子供ではないのだから、何をしようと自由だ。合意しているのだから、いいではないか。
 でも……私の部屋ではいやだ。汚らわしい。そもそも他人の目の前でする行為ではない。はしたない。
 私が部屋にいなかったら、二人はもっとエスカレートするかも知れない。いやだ。たとえおじゃまババア≠ニか無粋≠ネどと言われても、戻らなくてはいけない。部屋の主は私なのだ。二人の勝手にさせてなるものか。
 ドアを開けると、正面の奥で抱き合っている姿が見えた。すぐに眼を伏せる。
 左側は壁だ。膝を曲げ、両手で抱え込んで座った。背中を壁にもたせかけた。眼の左端に二人が見える。額が膝頭につくほど首を曲げた。
 涙が溢れてくる。さっきまであんなに楽しかったのに、どうして、こんないやな気分になるのだろう。ちゃんと言うべきことは言わなくてはいけない。
 声が出ない。
 二人の蠢く音だけが聞こえてくる。息の音、衣服の触れ合う音がする。
 やがて、一段落したのだろうか、静かになった。
「帰って……」
 やっと言った。炬燵まで這って行き、顔を上げずに、散らかった食器や食料の残骸をかたづけ始めた。
「はい」
 司の声がした。ファスナーの音が響く。
 二人は、私の横をすり抜けるようにして帰って行った。私はうつむいたままだった。
 真夜中に大掃除をした。二人の触った物はすべてごみ袋に投げ込んだ。さすがに炬燵布団は捨てられない。でも、二人の座っていたあたりは触れたくない。クリーニングに出そう。蹴飛ばしながら畳んで、大風呂敷に包んだ。
 眠ったのは明け方近かった。
 もう二度と二人の顔を見たくなかった。
 ところが、卒業式の日、司と出くわした。回れ右をしたい。私が悪くないのだから、逃げる必要はないと思い返す。黙って通りすぎようとした。
「やあ、卒業おめでとうございます」
 司は頬と口角を少し上げ、いつもの明るい調子で言った。
――えっ? 言うことはそれだけ?――
 あの夜のできごとは、司にとって大したことではなかったのか。私の夢だったのか。
 無視した。私の精一杯の抵抗だった。
『ご迷惑をかけました。ごめんなさい。これからは飲みすぎないようにします』
 卒業後、郷里へ帰った私に晶子から手紙が届いた。

◇作品を読んで

自分より年齢が上である人の気持ちは分からないが、若い人のそれならば書けるのではないかという作者の思いから生まれた作品である。大学を卒業するあたりの若い人達が、恋愛などについてどう考えるかというのは、それぞれによって違うのは当然である。作者は「私」という主人公を作り上げ、その私が司と晶子の行為を見て動揺した気持ちの流れを巧みに、そして爽やかに書いている。
 主人公の私の名前はない。そのことがリアリティを増している。もし、私に名前があったら、また違った雰囲気が出たのではないかとも思える。それは、書き手が主人公を別の目から見ることになるからである。
 作者は日常に題材を取った作品を多く書いてきたが、今回のそれは新しい分野である。更なる作品を期待したい。