忌まわしいあの日
原 正雄
島根日日新聞 平成17年6月16日付け掲載
「日本は神の国であり、負けることはない!」と信じ、いや、信じさせれられていただろう日本が、第二次世界大戦で、史上はじめての屈辱的な無条件降伏をした昭和二〇年八月一五日。その二週間余り前の七月二八日のことである。ぐずついていた梅雨が明けて一週間ばかりが過ぎ、代って日差しのきつい真夏日であった。 当時は梅雨明けの発表があったかどうかは知らないが、戦時中の気象予報は軍の統制下にあって、敵国に利するような発表はされなかったようである。 楽しみにしていた学校の夏休みも直ぐに一週間が経ったが、長い休みは、水浴びや蝉捕りが日課で、夏休みの宿題は二の次ぎであった。 「宿題は午前中の涼しい内にしまえ」とか、「水浴びは昼寝をしてから」と、父母や祖父母が口喧しいので、適当に、やったことにしていたのは確かだ。 昼食を終えると、昼寝をするかのように横になって、親たちが寝るのを待ち、頃合を見て大川へ急ぐのである。親たちに分らないように、上手に行動したつもりでいたものだが、四年生の知恵など、大人は承知の上だったようである。 横田の船通山を源に、八八キロを八岐大蛇のように流れを変え、氾濫を繰り返しながら、多くの沃野を形成し、宍道湖へと流れる大川。ときには、牙をむく濁流もあるが、日頃は穏やかな白砂清流で、子どもの格好の遊び場である。 その大川は、今は斐伊川と呼ばれているが、終戦の頃までは斐伊川と呼んだ記憶がない。田舎の情報希薄な子どもということもあったからかも知れない。 古事記の肥の川や日本書紀の簸の川という名称を経て、七三三年の出雲国風土記で斐伊の大川(大河)・出雲大川(斐伊郷のある旧大原郡では、風土記に斐伊川とある)等となり、島根県史では簸伊川と記されているような変遷を経て、現在のような『斐伊川』が定着してきたようだ。 いつもは昼過ぎから泳ぐのであるが、その日は先輩の都合だったのか、朝から川に行くよう、命令ともいえる誘いがあった。 ランニングシャツに半ズボン姿は、今の子どもと変わりはないだろうが、「欲しがりません勝つまでは」という、耐乏生活を強いられていた時代でもあり、今のような海水パンツなどはなく、水中眼鏡や浮き輪も粗悪で、直ぐに水漏れを起こすような代物だった。パンツは白い木綿の猿股か、幅五センチ位、長さ三〇センチ位の木綿の黒い布に紐のついた、越中褌といわれるものであった。 真夏の大川の流れは、水量が異常に少なくなるが、ごく一部に流れの瀬ができ、子どもの背丈もあろうかと思う深みもできる。そんな所の流れは速く、手足を少し動かすだけの泳ぎで、直ぐに浅瀬となってしまう。次は逆に上流に向かって泳ぐのであるが、流れが速くて進めず、歩いて上流に行くことの繰り返しとなる。水が淀んで流れのない所は、風呂の湯のように温かく、時々、そこで腹這いになって、身体を温めたりしていた。 暫らくそんな水遊びをしていた時のこと、ゴーという地鳴りのような爆音が近づいて来た。一キロばかり先の仏教山に連なる山の尾根辺りに、小さな飛行機の姿が見えた。先頭に一機、次は二機、四機と、一〇機ばかりが三角形のような編隊を組んでいる。誰かがバンザイと叫んだのを合図に、一〇人ばかりの私たちはバンザイバンザイ! と、両手を大きく振りながら川から上がり、土手の方に走りだした、その時である。編隊が散らばり、轟音と共に急降下する姿に変わった。その胴体と主翼には日の丸印はなく、星印があった。今では不確かだが、航空帽に航空メガネの米兵が、見下ろしているようであった。 皆が見ていたのだろう。「アメリカの飛行機だ!」と、叫びながら、川岸に生えていた柳の木の下に身を潜めた。怖さの余り上空を見ることもできず、その後の飛行機の様子は分らない。ただ、膝を抱えて下を向いていた。頭上ではバリバリバリ・ダダダダーという無気味な機銃掃射音と、飛行機が上下するような爆音が凄い。一瞬の出来事と恐怖心は、(もうこれで僕は終わりだ!)と思わせた。僅か数秒の後、怖さのあまり一目散で我が家に走った。 空襲は、鳥取県の美保航空隊駐屯の、山陰海軍航空隊大社基地といわれた出西飛行場(斐川町大字出西)への攻撃が目的であったようだ。当時のアメリカの小型爆撃機は、グラマンという足の速さで怖れられていたが、後に更に速度の速い? シコルスキーというプロペラ一個の小型戦闘機であったと伝えられている。 その日の爆撃で、出西飛行場の准士官一人と馬一頭が射殺された。また、国鉄山陰線の直江地内(斐川町直江)に架かっている段原の鉄橋には、列車を狙って撃った銑弾の痕が近年まで数箇所見られた。 出西飛行場には、敵国である連合国から、速さで怖れられていた「銀河」という機種が四〇余機配置されていたようである。殆どは滑走路には置かれず、仏教山の麓の氷室といわれる地域の、山裾に隠されていた。また、後日談であるが、『桜花』(おうか)という特攻機が配置されていたとか、無かったとかの噂であった。 桜花は一人乗りで、機首に爆弾を装着し、母機の下に吊るして、敵艦艇に近づいてから離脱され、艦艇めがけて突撃するものである。一度発進されれば二度と帰ることのない「人間爆弾」であった、と何かに書かれていた。 敗戦となり、やがて米兵がやって来た。八月末か九月頃になると、米兵によって飛行機は燃やされ、爆弾なども処理されたが、その爆発音と黒煙のすさまじさは、何日続いたのだろうか。 その頃、「メチルで目がつぶれるぞ!」という戒めの言葉をよく耳にした。それは飛行機の燃料であるメチル・アルコールを抜き取ったり、格納されている工業用アルコールを盗み取って呑み、目が見えなくなった人がいたからである。終戦のドサクサと酒類の乏しい時代の、笑い話ではすまされぬ出来事でもあったが、今では考えも及ばないことである。 現在、子どもの頃に親しんだ遊びの大川も、環境衛生上水泳は禁じられていて、夏休みの子どもの姿も稀で、手作りの矢銛や網を使っての、魚獲りの光景なども見られない。ましてや、敵機襲来などの話は、現代の子どもには通じる筈もなかろう。 時代は急速な変化を遂げ、子どもの遊びは様変わりし、自然相手から、ゲーム機などの頭脳行動が主となった。魚をはじめいろいろな生き物の棲家やその掴み方を知り、水の流れに戯れ、上級生に無理やり深みに連れて行かれたりの、自然の面白さは今は無く、プールという代物で、しかも保護者の監視の下での泳ぎとなってしまった。暮らしの豊かさと引き換えに、管理、統制されたような子どもの遊びを、時代の流れと、片付けてよいのだろうか。 あの忌まわしい敗戦から六〇年が経った。六〇年前までは、戦争の明け暮れであったといってもよい。明治の日清戦争(M二七〜ニ八)、日露戦争(M三七〜三八)から昭和の日中戦争(S一二〜一六)、そして、昭和一六年一二月八日の真珠湾攻撃によって起こった太平洋戦争(第二次世界大戦)までの長期にわたってである。 今年に入ってその六〇年前にタイムスリップしようと、数々の催しが行われ、計画されている。今、NHKテレビでは「昭和二〇年の記憶・著名人の証言でつづる六〇年前の日々」等、多彩な放送がなされているが、当時の子どもや若者の証言は貴重で、歴史の重みを感じる。 隣国からは、植民地支配だ! 侵略戦争だ! といわれ、歴史の汚点を消し去ることができず、反省とお詫びの重荷を背負っての六〇年でもある。しかも、〇五・四日本大公使館等への暴動事件をみると、善隣友好の掛け声も空しいばかりである。 全てが戦争の色に塗られていた時代も、今は忘れ去られようとしているが、六〇年前までは、日本は世界を巻き込んだ世界大戦を戦っていたことを思い出してみたい。 |
◇作品を読んで
昭和十四年九月一日、ドイツのポーランド侵攻によって始まり、日本の降伏をもって終結した人類史上最大規模の戦争、その六十年目が平成十七年である。 戦争も敗戦もはるかに遠くなった。人口の四人に三人が戦後、つまり昭和二十年以降の生まれで、終戦前後の状況を記憶している人達が、しだいに少なくなる。 戦争は沖縄や太平洋上ばかりではなく、静かな山陰にひっそりと佇んでいた出雲にも影響を及ぼした。 作品に書かれているのは、敗戦の日より二週間前の事件である。作者は、小学校四年生の時に体験した小型戦闘機による空襲を書き残しておきたかった。七月二十八日という正確な日付の記述が、その思いを物語る。 メディアが残すことのなかったこのような映像の記憶も、ある意味で貴重ではないか。折しも、日本は靖国や憲法問題で揺れている。 |