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  くずかご文庫
                              遠山多華
                                                                          島根日日新聞 平成17年6月9日付け掲載

 北山の鳶ヶ巣城址の麓に、ささやかに炎えている文化の灯『くずかご文庫』のルーツと経過を辿ってみる。
 碧杜太郎(みどりもりたろう)と号する一人の男が、教職を辞して後、納屋の二階を改造した天井裏で、晴読雨読の生活を始めた。
 もともと国語教師だったので、何か書くことによって村興しにつながることはないかと、徒然に考えた。
 昭和六十年十二月発起し、心ある数人の句文を載せた勧誘の文書を出して、呼びかけた。その趣意は、おおむね次のようなものであった。
――世の中には歌や句を作ったり、文を書いたりすることが好きな人が沢山あります。それらの人の書き作ったものは、それきり屑篭に投げ捨てられてしまうものも多くあり、「屑篭文庫」は、そうしたものを受け入れようという考えです。捨てずに、この屑篭に投げ込んで下さい。
 投げ入れの要領は、一度に句なら六句、歌なら四首、文であれば三百字程度、つまり、一人が一頁ということです。 
 自分の作ったものを活字にしてみませんか。この文庫が、いくらかでも地域の文化に役立てばと思います。
 ぜひ、「屑篭文庫」に参加していただきたく、お誘いします。――
 この勧誘に、いささかどころではない多くの手応えがあった。共鳴者が続出した。短歌、俳句、川柳、ユーモア溢れるエッセイ、俳画などが盛り沢山に届いた。嬉しい悲鳴を上げた。
 毎月二十日が〆切りである。早くには、十日が過ぎると原稿を持って屋根裏を訪れる人があった。コーヒー一杯で、それぞれの話題に時間を惜しまない。気の置けないグループが出来た。
 杜太郎は、早く届いたものからレイアウトをし、〆切寸前の原稿も待って、二十三日には製本完了という早業作業をした。絶対に人の手を煩わさない、自分でやらねば納得が出来ないという性格だから、私は手を出さなかった。けれども、配達は女、つまり私の出番だ。
 毎月二十四日。雨が降ろうと風が吹こうと、私はこの日、袋を肩に配達して歩く。それがまた楽しみで、生き甲斐でもあった。
 人目を惹かなかった「くずかご」の交流が、ある時、テレビに認められた。平成十年のことである。出雲ケーブルビジョンが、半年がかりの大型取材をしたのである。平成十一年に放映された番組の「屋根裏の文士たち」というタイトルは振るっていた。その番組が、全国グランプリに輝いた時は驚きだった。取材班の手腕が買われたのだろう。思わず、万歳と叫んだ。
 屋根裏の「くずかご文庫」にも、陽が当たったのだ。録画したビデオを、あちこちに配って自信が湧いてきた。順調に伸びてきたミニ文庫も重みが付いてきたのだ。
 平成十二年、西暦二〇〇〇年の二月のことだった。杜太郎は無理がたたって風邪から肺炎となり、十四日、慌ただしくこの世を去った。百歳まではと、やる気満々だったが病魔には勝てない。やむなく二月号は孫と二人で、何とか間に合わせた。そして、後継者を三代客人さんにお願いした。
 三代さんは、早稲田の後輩で同じ国語畑である。杜太郎は、以前から自分の後継者として決めていたらしい。三代さんには、快く引き受けていただいた。奥様が堪能な絵心を生かして、四季の花で表紙を飾ってくださる。最近はカラーとなり、文庫は華やかな輝きを増した。くずかご集団一同、大喜びである。
 くずかご文庫は平成十七年五月一日で、二百三十二号となった。『今月の表紙絵は、ホタルカズラ。山野、丘陵など日当たりのよい場所に咲く多年草。春直立した茎を出し、高さ十〜十五センチ位になる。開花した後は地を這うように枝を出し、根を下ろして新しい株となる。四〜五月に青紫色の花を咲かせる。和名は花の色を蛍にたとえたもの。』と、詳しい説明も編集後記に添えてある。
 くずかご文庫も、いよいよ新しい光彩を放ってくるようだ。
 五月二十二日、年一回の総会をコミュニティーセンターで開いた。殆ど全員の出席だった。なかには新しい顔もあり、皆さんの屈託のない笑顔に心温まる。自己紹介、記念撮影と続いた。山陰中央新報からの取材もあり、記者の方にピーアールする忙しさもあったが、これもまた楽しからずやである。
 交流が、いつまでも長く続くように、また、文庫の灯を消さないようにと誓い合って、一刻を楽しんだ日であった。

◇作品を読んで

 碧杜太郎こと、東林木町の故園山泰助先生が始められた「くずかご文庫」の経緯と思いが書かれている。
 くずかご文庫は、普段着の中から生まれた句や歌、あるいは散文などを寄せ合って作品集を作ろうという思いが地域に通じ、誕生した冊子である。
 同人誌の多くは思いをかける人によって始められるが、世に三号雑誌という言葉があるように、なかなか長続きはしない。それは作品が集まらないこと、経費や労力の負担が増大することなどによる。
 くずかご文庫の周辺には、創立者の思いを継いだ強い地域力があった。五十ページばかりの文庫だが、創刊以来の冊子は、おそらく一万ページ前後の量になるのではないか。まさに継続は力なりである。