まずは引き受けてみてからのこと
三 島 操 子
島根日日新聞 平成17年5月26日付け掲載
その日は、何かしら身体の調子が悪かった。しかし、天気の良し悪しによって気分が左右される、その程度のことである。 母の薬を貰う行きつけの診療所の受付で、ふっと診察を受けてみようか! という気が起きた。 「何か気になっていることがある?」 診察用のの椅子に座って先生の顔を見た時、患者としての気持の準備をしていないことに気が付いた。 「あると言えばあるし、無いと言えばないし……。何となく調子が悪くて」 診察室に入ったことを後悔している気持ちが伝わったのか、世間話をしながら血圧測定が始まった。聴診器を胸に当てられる。触診はとても丁寧に感じた。エコー検査もしてくれる。 突然の出来事は前触れなしにやってくる。 「気になる部分があるから、総合病院に行ってくれる?」 遠慮がちにゆっくりとした先生の声だ。それでいて、曖昧さのないきっぱりした言い方だ。 晴耕雨読といいながら、人に当てにされている内が華とばかりに、用事を受け込んでいる。そんな雑事をかいくぐり、総合病院で受けた検査は、良い! 悪い! の悪い′級ハが、手のひら幅の細長いテープに映し出された陰影によって決まった。 「手術しましょう」 私の前に座る先生にとっては、日常的な事柄なのだろう。何の感情も待たないような声が身体にへばりついた。狭い入れ物の中にぐいぐい押し込められるような息苦しさだ。 パソコンの前に置かれたカルテと検査データーが、机からこぼれそうになっている。先生の白衣の袖が当たれば床に散在してしまう。床に散らかるものは、私自身のような気がする。 一瞬、頭の中を冷たい風が通り抜けた気がした。 冷たくなった頭を動かすと、パソコンの横に掛けてある三月カレンダーが目に入った。 私の住む村は三月三十日で終わり、翌日からは合併して消えていく。その閉村式には何としても立ち会いたい。半年前から計画していた友人との旅行は四月の初めだ。ボランティアでの手伝いも請け合っている。断れば、その説明がいるだろう。三月上旬まで続いた寒さのため、ジャガイモを初めとする春野菜の種まきが大幅に遅れている。少しずつ暖かくなってきた気候と一緒に、農作業の遅れが一日、一日、重たく感じられるようになっているところだ。 「四週間後ぐらいのところでの手術……お願いできますか」 思考の低下してしまった私を押しのけ、体の中に隠れ住んでいる、やたらと気の強いもう一人の私が、しゃしゃり出た。 「忙しい人なんだね」 馴染みのない先生はあっさりと受け入れる。入院の日程が決まった。 四週間の余裕は、自分の中で起こっていることは大したことではない、そんな気にさせてくれる。 天気の良い日をたぐり寄せて農作業をこなす。冬の間に硬くなっている身体には応える。中腰の作業続きで腰に鈍痛を感じ、膝の周りには痛みが走る。痛消炎テープを貼って約束していた旅行にも行った。それを見付けた友人には「程々には出来ないの」と呆れられた上にも、更に呆れられてしまった。 四週間は、散り急ぐ今年の桜のように直ぐに消えてしまった。この期間の重大事は腰と膝の痛みだった。お陰で、身体の奥にある忘れてはならないものの存在など思い出す気持の余裕もなく過ごせた。 心せわしなく過ごした時間を振り返れば、蕪にほうれん草、日々草、コスモスなどは、しっかりと土の上に芽を出している。ポット植の苗も緑が濃くなっている。 家人に水の管理をよくよく頼んで、入院の支度に取りかかる。 身体はふだんと変わらないのに、入院しなければならないという違和感が増殖し、固まりとなって喉元に突き上げてくる。 非日常的な時間と対峙できる、いつか読もうと思い机に積んでいた一冊の本を手に取りぱらぱらとめくった。 すると、中ほどのページがパックリ開き、一行の詩がドンと音を立てて目の前に座り込んだ。 ――いささか/あてずっぽうのようだが/死は/無限の半分だと/心得たらどうか(略)・天野忠―― 徳永進の著書『野の花診療所まえ』の中にある。 死などというものは、先の先のずっと先のことだと確信はしているが、思いがけない言葉で励ましの声を聞いた気がした。どの部分をもって励ましの言葉と感じたか! と聞く人があっても、きちんと説明が出来る語彙は探せていない。が、良い言葉を見付けたという気持が、穏やかな落ち着いた気分を思い出させてくれた。 入院経験も悪いことではない。どんなことでも引き受けてみてから、始まるのではないかと確信できてきた。 ほこりを払った本を何冊か入れ、少し重たくなってしまった荷物が出来上がった。 入院は、明日の午前中の約束だ。 玄関の上がりがまちに、荷物をよいしょと置いて支度は終わった。 |
◇作品を読んで
文学教室参加者の中に、毎月一作品を書くということを目標にしている方が幾人かある。この作者もそのうちの一人である。原稿用紙にして、数枚という量であったにしろ、そのように決めて書くということは大変な努力ではないか。なぜなら、読者には分からない膨大なエネルギーが、その裏で費やされているからである。 書くことは自分一人の、いわば孤独な作業とも言える。書いてはみたが、それが良い作品かそうでないかは、分からない。しかし、自分の思いを表現するためには文章しかない。他の人に読んでもらい、思いが通じた時の喜びは何にも代え難い。だから、書くのである。 この作品は、入院という出来事から、どう生きるかということを書こうとした作者の思いが、研ぎ澄まされた言葉で巧みに構成されている。 |