義経の里
坂本 達夫
島根日日新聞 平成17年4月28・29日付け掲載
NHK大河ドラマで、『義経』が放映されている。番組を見ながら、一昨年、義経が奥州藤原氏によって庇護されていた岩手県の平泉に行った時のことを思い出した。 大原郡のある町に勤めていた。町の教員を代表して、岩手県南部、東磐井郡の町を交流のために訪問することになった。同僚のA先生と二人、晩秋の東北ということもあってコートを持ち、羽田空港に向けて出雲空港から飛び立った。東京からは東北新幹線で、一関へ、そこから、在来線に乗り換えて岩手県西磐井郡平泉まで行き、平泉駅からはタクシーで中尊寺へ向かった。 中尊寺の入り口には、色とりどりの小菊で黄色の塔が作ってあった。そして、鬱蒼とした坂道をしばらく登ると、あの有名な金堂が森の中の覆堂の中にあった。 覆堂の中に入ると、近年張り替えられた金堂の金箔で見学者は金の光に包み込まれる。仏像群もすべて金箔で覆われ、薄暗い中で柔らかな光を四方へ放っている。平安時代末期という古い昔、京の都から遠く離れた地方に、華やかな文化が息づいていたことに圧倒される。 藤原氏二代目の藤原基衡の建立した毛越寺見学の後、一関泊。 次の日、目的の東磐井郡のある町へ行った。そこで、統合した中学校の床暖房システムのある新校舎や、来年統合する小規模な小学校を視察した。児童がバスを待つ間に、暖を取る十六角形のコタツに微笑む。 夜は、朝日軒という料亭で、教育長や校長会の代表の校長先生方に歓迎会を開いていただいた。テーブルの上には、気仙沼から仕入れられた新鮮なしゃこやほや等のご馳走が並べられた。私達は、島根から奥出雲の酒を持っていっていたので、最初に飲んでもらった。遠野からこの町内に赴任された先生は、いかにも酒好きな飲み方で一気に杯を干されたが、「甘い!」と気に入らない様子だった。A先生と私は、遠いところまで重い荷物を運んだのにと、少しがっかりしていた。教育長さんが、さすがに気配を察して、「旨いな!」と、ざわざわしていた周囲の人を一喝されたので、私達の面目はたった。そして、教育長は自分が島根に行ったとき、どんなにお世話になったか、いかに感謝しているかなど、いろいろ話された。 山間の学校に勤めている私は、徒歩通学の児童が、地域の人達の好意でバス通になったものの、楽をするので走るのが遅くなり、それまで優秀な選手がいっぱいいたのに、町の陸上大会では、走る選手走る選手が後ろの方ばかり走っているので、恥ずかしいと話した。 遠野から来ておられるふくよかな校長先生は、「遠野の小学校が統合して新しい統合校ができまして、遠くから来る子はみんなバス通になりましてな。その小学校の校長として赴任しました。体を動かさずよう食べるもんで、みんなが太りました。遠野の人達が、今度の校長が来たら、みんな校長みたいになっちゃったと言うとります。」と、笑いながら言われた。 その校長と同じ豊満な体型の小学生達を思い浮かべ、誰もが、あははは……と大笑いをした。 私には、東北を訪ねる私的な目的もあった。私の家の祖母方は、義経の家来の佐々木高綱の子孫だといわれている。高綱はこの東北の地で家来になったと聞いていたので、私達一族のルーツを調べたかった。たとえ間違っていても、何かの話題になるだろうと思って、軽い気持ちで校長先生方に聞いた。 「私の祖先は、義経の家来の佐々木高綱ということですが、この辺の出身じゃありませんか」 その一言で、盛り上がってきた宴が水を打ったように止まった。実際には一、二分ぐらいだったと思うが、息苦しい沈黙が、私には十分間も続いたかのように長く感じた。何か、言ってはいけないことを言ったんだと苦々しく思った。 歴史に詳しい校長先生が、 「私の家は平安時代の頃から、神主の家柄で藤原氏と嫁のやり取りをして親しく付き合っていたそうですわ。あなたが言われた、佐々木高綱とは宇治川の先陣を名馬池月で務めたあの高綱ですな。近江の方の出と聞いとりますが……」 と話された。 私は、それだけ聞くとこの問題に触れては拙いと思い、軽い話題に切り替え、座を盛り上げることに一生懸命努めた。心の中では冷や汗をかきながら、藤原氏と言われたのに、その時は混乱して、「この辺は平家に関わる人々が多いんだ。源氏の話題はしてはいけなかったんだ」と、源氏と平氏の問題に勘違いした。一人敵地に乗り込んだ武将のような気持ちになって、杯を重ねた。 宴が終わる頃には、やっとの思いで何とか町の教員を代表する役目を挽回できたように思う。 別れるときには、 「必ずまた来てくださいね」 「島根にもぜひ来てください。こんなに歓迎してもらって、私たちもしっかりご馳走しますから……」 と岩手の人達は、心温かだった。 翌日は、岩手県の中央にある江刺市へ行った。平泉黄金文化を築いた奥州藤原氏の文化を再現している、「えさし藤原の郷」を見学するためである。朱塗りの政庁から、これも朱色の平安朝の狩人のような服装をした美しい娘達に出迎えてもらった。一代目の清衡の館、三代秀衡の伽羅御所を見ながら、しだいに昨夜の謎が解けてきた。源氏と平氏の問題でなく、この地域の人々は奥州藤原氏を誇りに思っており、その文化を結果的に跡形もなくしてしまった義経主従は快く思われていないと感じたのだ。 広大な館の周囲を歩き回り、ここは蝦夷地なのだ、英雄は義経でなく、前九年の役で敗れた安部宗任であり、安部貞任だったと改めて思った。 流されているビデオでは、阿部氏が優れた政治と高い教養でこの地域の人々から慕われていたことを説明している。戦も都から送り込まれた武士、源頼義の軍勢よりも強かった。その阿部氏の後継者である藤原清衡が、辺境と蔑まれていた蝦夷地に、都に勝るような豊かな黄金文化を築いたことを「えさし藤原の里」全体で誇らしげに物語っている。我々のヒーロー義経を説明しているコーナーなど、どこにも無かった。初めて分かってきたこの事実の衝撃は、頭を金槌で殴られたかのように激しいものだった。 館の一角で何気なく手に取った雑誌には、芭蕉が高館で読んだ「夏草や兵共(つわものども)の夢の後」が取り上げてあり、芭蕉が見ている「兵共」は誰のことを言っているのかと論が述べてあった。兵共は、芭蕉は義経主従のことを思って言っているだと作者は言う。私もそう思う。しかし、それは公平でない。ここで倒れていったのは、義経達だけでなく、大勢の奥州藤原氏の武士達である。彼らは、平泉の何百と立ち並ぶ寺院や伽藍を守ろうとして力尽きたのである。千年も前のことではあるが、私の祖先、源氏の兵士達がしたことが、申し訳なく思えてきた。 前日に訪問した東磐井郡一帯は、当時は産金地帯であり、平泉の経済力や軍事力を支えていたことも分かってきた。あの辺りの人々の先祖は、藤原氏ゆかりの人々だったのだ。 前夜のことを思い出す。義経やその家来のことをちょっとだけ知っている私が、唐突にこの辺りでは好意を持たれていない源氏のことを自慢そうに喋ったので、さぞかし不愉快であったろう。今日分かった事実を知識として持っていたら、初対面の人達にあんな不躾な質問はしなかった。自分の無知を恥じるばかりで、この地の歴史や文化にもっと敬意を払うべきだったと、後悔の念がしきりに沸く。 中尊寺建立供養願文には、「中央の人々の誤解によって滅んでいった阿部氏、清川氏など、奥羽の人々を浄土に導くと共に、奥羽の人々への偏見を改めさせるためにこの寺を建立する」との意が吐露されているという。 私は、まさに奥羽の人々への偏見を正した。この旅行で平泉を学ぶことによって、蝦夷とか俘囚と呼ばれ蔑められた、岩手県の人々の過去からの思いの一端が分かったような気がした。いつの間にか、今まで源氏の視点でのみ見ていた歴史を、奥州藤原氏の視点から、違った立場から歴史を見据えることで、新しい世界が見えてきた。 生まれ変わった気持ちで、次の見学地――宮沢賢治の理想郷・イートーハーブへの列車に乗った。 |
◇作品を読んで
作品に書かれた奥州藤原氏三代の本拠地平泉にある、初代藤原清衡が建立した東北随一の名刹中尊寺は、平安時代と東北文化を代表する三千余りの国宝や重文を保存していることでも知られている。 作家の内海隆一郎は、中尊寺に眠る藤原三代のミイラの学術調査を題材にしてノンフィクション『金色の棺』を書き、ミイラの調査と公開に道を開いた中尊寺執事長佐々木実高氏を登場させている。内海隆一郎の義父である。 誰でも、自分の家のルーツを知りたいと思う。それは、自分の存在基盤を確かめ、生き方の方向を見つけようということでもある。 作者は、先祖が佐々木高綱に関わりがあるのではないかと日頃から思っていた。機会があって東北に出掛けることがあり、何か得られるかもしれないと考えて聞いてみたのだが、その質問は意外な展開をみせた。作者の驚きと共に、その様子が、よく分かるように書かれていて興味深い。 |