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  内視鏡に覗かれて
                                 遠山 多華
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 二〇〇五年、今年は酉年である。早春のある日、転んだわけでもないのに、突然、膝が痛みだした。日頃から健脚を誇り、かなりの遠歩きにも自信があったから驚いた。
 元来、四十キロの痩身で、足には負担が掛からないからだと自負もしていた。聞くところによると、既に七十歳くらいで膝の痛みを訴える人も多いらしい。
 急遽、整形医の門を叩く。湿布、注射、投薬、そして治療を続け、漸次、快方に向かった。先ず三十分くらいの歩行は、出来るようになった。けれども、正座は無理だ。
 私が通う文学教室は、板の間に座布団を敷いて勉強する。何枚も座布団を重ねて座り、苦労している私を見かね、先生が風呂場用の丸い椅子を用意してくださった。なるほど足が楽で、負担が掛からない。このような便利な椅子が身近にあったことに、一向に気付かなかった。温かい心遣いに感謝している。
 そのうち、便秘という厄介な症状が出てきた。もともと、その症状があって漢方薬のお世話になっていたのが、少し重症になったのだ。 
 原因不明のまま、今度は掛かりつけの内科主治医を訪ねた。大腸の内視鏡検査を受けることになる。
 土曜日の医大からの出張の際にということで、予約する。
 これまで入院したこともなく、検査もCTくらいのことだったから、大袈裟な気がして不安である。やはり体調を崩すと精神的衝撃を受け、精神も不安定にならざるを得ない。読書をしようとしても、頭の中は真っ白である。
 当日の朝になった。不安な気持ちは去らない。
 ふっと、ホーホケキョ、ケキョと鶯の声を聞いた。明るい声だ。総身の血が沸き立つような元気が出て、気持ちが落ち着いてきた。
「落ち着け。しっかりしろ」
 亡夫の遺影も、たしなめているようだ。
 十五分から二十分くらい掛けて、コップ一杯の下剤を服(の)み続けなければならない。下剤の全量は夥(おびただ)しいもので、見ただけでうんざりする。続けざまに服むことに、根気と疲れを覚える。二時間ばかりで、液状の便が透明になって完了した。
 午後三時。病院に行く。いよいよ内視鏡検査である。
 特別な痛みはなかったが、腸が長くて奥まで届くのに時間を要し、四十分くらいも掛かって終了。
 結局、大腸に異常は無かった。ただ、小さなポリープが発見され、除去してもらうことが出来た。放って置けば、だんだん大きくなる。早期発見で良かったことになる。
 こうして心配した検査も無事に終了。家族も心配してくれたが、まずまず愁眉を開く。
 生きている限り、どのような身体の異常が起こるか、知る由もない。安易に考えていた私への戒めだったかもしれない。
 最近、内視鏡服まないけれど生きている≠ニいう川柳を創ったばかりである。
 要心、要心。
 遺影が「どうだ、肝に銘じたか」と、苦笑しているようだった。
 生きる意欲が、もりもりと湧いてきた。

◇作品を読んで

 これまで、特に大きな病気もせず健康を自負していた作者は、膝が痛みだし、続いて内臓関係も不安材料が出てきた。結局、内視鏡で検査をすることになる。誰でもそうだが、健康が気になると落ち着かない。その気持ちの移り変りが、作者独特のユーモア的感覚をまじえながら書かれている。
 検査の結果、異常はなかった。作者の部屋には作品にたびたび登場する亡夫の遺影があるが、それは、ことあるごとに作者を勇気付けている。
 書くことの第一歩は、原稿用紙に向かうことだと、よく言われる。当たり前のことのようだが、なかなか出来ないことで大事なことだ。言い換えれば、頭の中ばかりで考えているのではなく、とりあえず何かを書き出してみるということでもある。
 作者の作品量の多さは、このことに支えられている。