荒磯の海
三島 操子
島根日日新聞 平成17年4月7日付け掲載
松江から国道を西へ、車で約三時間。日本海に対峙するように建てられた温泉宿に、午後四時を少し回った頃やっと着いた。 日本海に迫り出すように大きく窓を取った部屋から眺める冬の海は、波を荒くし、重いストーム・ブルーの色をしている。 窓下の岩場にぶつかる波は、白く弧を描き大きくゆっくりと海に帰って行く。 沈む夕日を見たいと、宿の人に聞く。 「冬は太陽が少し南に沈むので、海の方に迫り出た山が邪魔になって見えないのですよ」 部屋付きの仲居さんが申し訳なさそうに説明してくれた。 一軒しかない海辺の温泉宿への気の合う女友達との小旅行だ。私たち以外に泊まり客がいないのか、波の音しか聞こえない静かな宿だ。 私たちは、四方を山に囲まれた田舎に暮らしている。目の前に障害物もなく、彼方からゆっくりとやってくる波を見ながら、岩に砕ける波の音を聞いていると身体が少しずつ空になり、軽くなっていく気がする。ほんの少し開けた窓から入る磯の香りが、軽い眠りを誘う。友も同じ気持らしい。静かな時間が、並んで座る身体の横をすり抜けていく。 温泉は階下にある。廊下を曲がって行くと、赤い椿の花が枝振り大きく活けてある。山で見かける花の風情を残しているが、花びらの付き方が奥山には似合わない。きっと相応しい名を頂いている椿だろう。 宿全体が賑々しい雰囲気でないのがとても良い。 岩を組み合わせた露天風呂は、波間近くにあった。湯舟に沈んでいる私たちを、飛沫が飛び上がって覗き見するかのようでおかしい。 「命あっての健康ではないよね! 健康あっての命だよね!」 友の独り言のような言葉が、波の音と一緒に聞こえる。健康のことが一番気になる歳だという自覚はしているつもりだが、波明かりを頼りにお互いの肩の白さを見比べた。 「……少し図々しいけど、まだまだ……」 岩打つ波に負けない位大きな声で笑ったことがおかしく、また大笑いをする。 一人で行動出来る女性が増えていると言われている。 私自身どんなに短い時間であっても、自分だけの時間を欲している。この気持はだんだん強くなり、いつも片手に下げて歩いている気がする。 夕食になった。今の自分たちをビールのつまみにして、話は止めどなく続く。 「楽しそうですね。松江からですか」 先ほどの仲居さんが綺麗な言葉遣いで話しかけながら、手際よく皿を並べてくれる。 「自分へのご褒美でね。私たち出雲弁で話していますか?」 「話し方で、何となく石見の方でないことは分かりますよ」 これも縁だからと、一緒に話が弾む内、身の上話を聞くことになった。 彼女の一人娘が、この土地出身の人と結婚してここでの新生活を始めることになったため、身よりのない自分も一緒に東京から移り住んで来たという。 「結婚した相手に母親が付いてきて、主人になる人もびっくりだったと思いますよ」 からからと笑いながら話す様子は、この地域にとけ込みながら生活できている自信からか、穏やかな目元に力強さが感じられる。 こうして働くところがあり、娘の負担にならず、近所とも心安く行き来できる暮らしだという。東京では味わったことのない気持よい毎日だと話してくれる。 食事が片づけられてしまうと、打ち寄せる波の音だけが聞こえる。 敷かれた寝床に座り、嫁がせた娘のことを思っていた。 「気持ちの良い生き方している人だね」 「自分の意志で生きている強さがすごいね」 誰に言うでもなく呟く友も、何かと向かい合っているらしい。人を寄せ付けない気配を感じさせる。 波の音が、静かな、とても静かな時間を作ってくれる。 寝る前にまた温泉に下りる。身体を包む熱目の湯と、顔にあたる海風の尖った冷たさが、特別の時間であることをしっかりと実感させてくれた。 自分へのご褒美の時間は早く過ぎていく。明日の午後にはそれぞれの家に帰る約束である。 よそ行きの匂いのする布団を引くと、自然に肩の力が抜けていく。腕には昼間の運転疲れが少し残っているが、足もとに残る温泉の温もりがじわじわと腰の辺りまで上がってくる。掛け布団の重さがちょうどよい重さとなって、身体を包んでくれる。 波の音が聞こえるようにと、カーテンを開けたままのガラス窓に、時折柔らかな明かりが横切る。沖の島にある小さな灯台の光らしい。 寄せては返す波の音に合わせるように、小さな寝息が規則正しく隣の寝床から漏れてきた。 瞑った眼の奥にある蒼い風景が、ゆっくりと遠くに消えていく。 波の音と一緒に消えていく風景のずっと先の方から、穏やかな優しい声が聞こえる気がする。 懐かしい声だ。誰だろう……。 でも、声はだんだんと遠のいていく。 |
◇作品を読んで
文章を書くということは簡単なようだが、いざ書こうとすると難しい。書き慣れない人には、そうであろう。 文章には、内容によって型がある。たとえば、紀行文は、旅に出て見聞したことを文章にする。見たり聞いたりしたことを書くのだから、さほど難しいことはないはずだが、その文章が良いか悪いという判断の急所は表現であり、描写である。いかに感動した風景であっても、表現がつまらなかったならば何も伝えることは出来ないのである。読み手が、その風景の中に書き手と共に立っているように思ったならば、それは生き生きとした紀行文である。 この作品は紀行文ではないが、同年配と思われる友人と旅に出た宿で出会った接待係の人を点景にし、書き手の思いと海辺の風景に浸ることが出来る。 |