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  幸福の予感
                                 大田 静間
                                                                          島根日日新聞 平成17年3月31日付け掲載

 春が来た。何かいいことがありそうな予感がする。
 この間、新聞の文芸欄を開いていて、目に留まった言葉がある。幸福とは「幸福の予感である」と載っていた。
 幸福探しは、万人の永遠の課題である。
 それゆえ、古今の思想家、宗教家などによる多くの著書もある。
 私たちが気楽に手にする小説も、つきつめれば、この課題のヒントを模索するために読んでいるのかもしれない。
 かように実体の掴めないものであるが、この「幸福の予感」は妙に納得できた。
 自分の来し方をふり返ってみるに、少年期は偉人伝を読み、主人公に自分を重ねて空想に耽った。白馬の王子様を待つ少女の夢の類いである。
 青年期はといえば、日本経済が始動期の就職であった。生産優先の時代であり、騒音の中で歯車から飛散する油にまみれ、頻繁に故障を繰り返すマシンとの闘いであった。確かにエネルギーは消耗したが、開拓の楽しみのある時代でもあった。
 懲りもせず失敗を重ねたが、成功の予感が幸福の予感に繋がった。
 壮年期は、自身にとらわれている余裕はなかった。幸福の照準を家族に合わせ、これを支える義務感だけがあったように思う。
 六十歳半ばの現在、幸福を紡ぐための攻めの目標が見あたらない。
 過日、テレビで水上勉の晩年を見て感動した。老いは淋しく、気持ちが委縮すると告白していた。テレビは脳梗塞に見まわれ半身不随となってからも、ベッドに横たわりながらの創作活動を続ける姿を放映していた。
 口元を歪め、意のままにならない言語を秘書に書き取らせる様は、憑かれているかのように見えた。
 作品が完成し、車椅子で授賞式に臨んで感想を尋ねられ、「読んでいただくと分かるが、借りものは一つもありません」と語っていた。言語不明瞭であったが、このように聴きとれた。記憶が定かではないが、確か平成十年の文化功労賞ではなかったかと思う。
 はた目には、苦難の極致のように映るが、この作家の眼差しから、完成品を見据え、至福の時間を過ごしているのではないかと想像したのである。

◇作品を読んで

 ロシアのドストエフスキーは、「コロンブスが幸福であったのは、彼がアメリカを発見した時ではなく、それを発見しつつあった時である。」、フランスのユゴーは、「人生における無上の幸福は、自分が愛されているという確信である。」と言った。それぞれ、幸福についての格言である。幸福とは何かというのは、まさに古くから追究され続けている課題である。
 感想文は、あること(もの)に対する感じ方を述べるのだが、素直に書くことが大切である。
 作者のテーマは幸福とは何かである。自分の経験を発展させて、事例を引きながら客観的にとらえようとした。この作品のように、一つのテーマについて感想を書こうとする場合、まず経験からというのがごく自然の流れである。
 作者の作品は、この一年間書き続けて十編になった。それは考え続けることと同じであり、常に問題意識を持つ続けることでもあった。テーマはどこにでもある。それを漫然と見過ごすか、「おや? これは何だ」と目を光らせるかである。
 作者を含め、文学教室に参加されている方が書かれた作品数は、この一年で約百三十編になった。新聞に掲載した作品は、そのうちの半分にも満たない数である。