宿借り
佐 藤 文 香
島根日日新聞 平成17年3月10日付け掲載
私の祖母夫婦には、子どもがなかった。祖母の姉の三男を養子にもらい、島根師範学校に通学させて教師にした。 私の父は二十五歳の時、浜田女子師範を出て松江の雑賀小学校の教師になっていた母と恋愛して結婚し、私が生まれたのだ。五人家族となった。 祖母は喜び、自分の子どものようにして、あちこち連れ歩き、私を可愛がってくれた。 五歳になった時だった。今でもはっきり憶えているのは、松江の新大橋の南詰めにある「売布神社」の祭礼にお参りしたことである。 道端にずらっと素焼きの鉢が並び、土の中に一本の棒が立っていた。長さが三センチくらいの尺取り虫のような土色の虫が、三センチくらいの大きさの殻から出て、棒を上がったり下りたりしていた。蝸牛のような貝に住んでいるのか、元の自分のものには入らず、ほかの貝殻に入るのである。それが面白くて、いつまでも見ていた。 三年生になると、母が雑賀小学校から荒島小学校に転任になり、伊藤医院という病院の別宅に引っ越した。門を入ると右側に母屋、左には洋風な建物があった。二棟とも貸してもらい、私は弟と、回り縁のある母屋でよく遊んだ。 お医者さんのお宅にご挨拶に伺った時、ぷーんと消毒の匂いがして驚いた。松江では十年ほど住んでいたのに、一軒のお医者も知らず、風邪も富山の置き薬で治していた。腹痛(はらいた)もなく、手間のかからぬ子だと喜ばれていたくらいだから、医院の門をくぐったのは生まれて初めてだったのである。 中庭には、高さ三メートルもある八重桜があり、杜若、菖蒲、朝顔、金木犀など、年じゅう何かの花が咲いていた。子ども心にも、優雅な気持ちを味わった。 昭和十六年十二月八日、学校の音楽室で歌を習っていると、用務員さんが来られ、全員校庭に集まるようにと言われた。校長先生から「日本が戦争状態に入ったから、今日の授業は終わりにして帰るように……」という話があった。どうなることなのか分からないまま、遊びながら皆と帰った。空き地では、男の子が棒切れを持って、戦争ゴッコをやっていた。 翌年には米が自由に買えなくなり、配給という制度になった。米は五分搗き米で、ご飯は茶色だった。更に翌年の十八年になると、しだいに配給の量も少なくなり、一日一握りの米と大豆、黄色いザラメ、アラメなどを食べるようになり、お腹がいっぱいになることはなかった。そのせいか、栄養失調で心臓脚気と肋膜になり、水が溜まった。学校で、血の混じった白い泡を吐いて倒れた。 医者に行っても薬は軍人さんに送られてなく、肝油くらいしかなかったので、仕方なく灸点をしてもらった。それから毎日、祖母が背中にモグサを丸くして線香で火を点ける灸を五十粒ほどしてくれた。夜は横になっても眠れず、息も出来ないくらいだった。祖母は卵を求めて半日も歩き、泣いている私に呑ませてくれた。 みかねた父は子どものためだと知己に頼み、三刀屋の学校に転任させてもらった。食べ物が十分にあるからという理由だった。 空き家になっていた一軒家を借りた。棚田の一番高い所にあり、三メートルはあるかと思われる石垣の上に建っていた。後ろは山になっていて、冬は笹に積もった雪がサラサラと落ちる音が聞こえ、子守唄のようだった。父は、山畑にジャガイモ、カボチャ、サツマイモを植えて食べさせてくれた。六ヶ月もすると歩けるようになり、少しずつ私も畑について行き、草取りや水やりなどをした。そうするうちに、八ヶ月もすると元の体に近づき遊べるようになった。 冬になると、青竹でスキーを作り、橇なども持って来る友達もいて、斜面を滑って楽しんだ。橇には、五人くらいが乗って、先頭の子が手綱をあやつった。切り倒された木の根に乗り上げてひっくり返り、雪だるまになって大笑いをした。 夕方になると、子どもの仕事になっていた五右衛門風呂沸かしである。子ども用の天秤棒の両端にバケツを付け、防火用水にと山の清水が引かれていた所から十数回も通い、風呂を一杯にした。秋に山から刈ってきた雑木や小屋に積んである割木で風呂を焚き、雪遊びで濡れた服を乾かした。 五、六年生になると、麦刈りや田植えに動員され、秋は取り入れと忙しく、学業は雨の日だけだった。 厳しい時代の学校生活だったが、五年ばかり早く生まれたため、軍需工場には派遣されず、爆弾の被害も受けることはなかった。生かされて今あることに感謝して暮らしている。 しかし、戦争がなかったら、山里に疎開することもなく、どこを向いても絵になる山の暮らしを体験することもなかったはずである。そんな宿借り生活の楽しい思い出が、今も心の中にいっぱい詰まっている。夜、床に入ると、それを思い出して懐かしむ。 |
◇作品を読んで
思い出に順番はつけられないだろうが、それを振り返る時、悲しいことよりも幸せなことの方に思いを巡らしがちである。それは自分が、現在は幸せで心に余裕があるからだろう。その思い出は時が経つにつれ、ますます美しいものとなってゆく。もし出来るならば、またその時に帰りたいとさえ思う。 思い出というものは個人的なものだから、全てが読み手に十全に伝わるわけではない。それがごく僅かだとしても、書き手は思いを伝えたいのである。 作者は辛かった若い日を思い出すが、今になってみれば、そのどれもこれもが素晴らしく、人生の宝物にさえなっている。 若き日の思い出は、生きる活力にもなる。それが書きたかったはずである。 大事なことは、体験を具体的に描写することである。悲しい、料理が美味しいといくら書いても、それでは読み手に伝わらない。読み手にどう書けば分かるかということを考えるのが、基本である。 |