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掌編小説
   円を描く僧               小 村 美 穂

                        島根日日新聞 平成14年9月18日掲載

 七十を過ぎてしまったというのに、なぜこんなにも湧き上がる追慕の情が押さえ切れず、振り払えないのだろうか。休火山のように心の底で燻っていた火が、めらめらと炎を立てる。見奈子は、胸が焼けるのではないかと思った。
 ある雑誌に、太平洋戦争に出征したまま帰ることの無かった人が恋しい、という心境を綴った一文があった。遠い昔、好きだった人との思い出が重なり、読み進めるうちに涙が溢れ、見奈子は、突っ伏して泣いた。
 
 見奈子が十八の時だった。女学校を卒業してすぐに、近くの繊維会社に就職し、そこで出会った六才年上の人と恋をし、幾つかの夜を重ねた。昭和十六年、そろそろ戦争が激しさを増し始めた頃である。家柄が違う、まだ二十にもならない、という理由で両親から反対され、泣きながら別れたのだ。会社もそれを機会に辞めた。
 呆けたような日が続く。見かねた親が見合いを勧め、いわば自棄になっていたなかで、写真で見ただけの人と結婚した。夫となった人の仕事の都合で、二十才を過ぎた時、北朝鮮に渡った。初めて見た外国の土地は、見るもの聞くもの全て珍しく、あの人との思い出もしだいに薄らいで行ったのだ。
 終戦。故国日本へ帰ろうとする引き揚げ者のひとりとなった。それは並大抵のことではない。北朝鮮はソ連軍管区だった。女はロシヤ兵を欺くために、髪を切って男装し、厳寒の山を越え、冷たい川を渡った。歩くのはいつも夜だった。昼間だと捕らえられるからだ。舞鶴の港にやっとの思いで着いた。我が家に帰ったとき、出迎えた家族には、見奈子がいったい誰なのか分からなかったという。
 昭和二十一年、見奈子があの人の死を知ったのは、帰国して一か月が経った頃である。結核にかかり、結婚もしないまま三十才で旅立たれたと聞いた。
 落ち着いた頃、子宮外妊娠で手術をし、子どもが産めない体になった。あの人の思いがそうさせたのではないかと、見奈子は想像した。
 子どもは諦め、以後、茶道、華道、洋裁を懸命に学んだ。しだいに、それぞれの弟子も取れるようになった。戦後のことだから、着るものも不自由な時代だったが、自分の服、注文が来るようになった男物のズボンなども仕立てることが出来るようになり、ともかく平穏無事な暮らしが続いたのだった。

 半月ほど前から、茶室の蛍光灯が故障でもないのに、点いたり消えたりするようになった。見奈子は、その頃から夢を時々見た。夢に必ず出てくるのは、若いときのあの人だった。懐かしかった。
 毎朝、お茶室の床に一服のお茶を点て、家族には内緒で、あの人の姿を掛け軸に重ねてみたりするようになった。
 みまかりし彼の人に点てし茶の冷えて文月の夜はふけにけり
 めぐり逢えても夢の中先に旅立ち仏となりて悲しく一人の涙雨
 思いつくまま、見よう見まねで歌らしきものを作ってみたりもした。
「ねね、先生、この頃、若々しくなられたよね。艶っぽいと思わない?」
 いつだったか、自分の知らないところで、弟子たちが話していたと聞き、見奈子は顔を赤らめたことがある。
 墓参りをし、花を手向けて帰ると、いくらかは安らぎを覚える。だが、気持ちの動揺はおさまりはしなかった。もっと激しくなるのではないか、あの世からあの人の思いが矢となって胸に突き刺さるのではないか、とも思った。

 ある夜、夢を見た。墨染めの法衣をまとった僧が、大きな円を描いている。
 禅宗のある宗派では、引導法語を唱える。導師が法炬(たいまつ/と振り仮名)を手にし、右回り、左回りに円を描く。故人を仏の世界に導くのである。
「私は一人の女性を不幸にしたので、仏門に入ったのです」
 低い声がした。はっと思って、僧の後を追ったが、たちまち姿はかき消えた。
 目覚めて気がついた。あの人が亡くなってから五十年になる。成仏したことを知らせる夢ではなかったか。そう思うと、それまで張りつめていた気持ちが吹っ切れたような気がした。
 その日、見奈子は、墓へ行き一輪の百合の花を供えた。


※講師評
 人は、恋をするから人である。人は誰でも、異性にまつわる若い時の切なくも香(かぐわ)しい思いを持っている。齢が幾つになろうとも、それは心の奥底に熾火(おきび)のように留まっている。熟年といい、老年というが、それは、若い時代と違っていろいろな意味で豊かな時期である。そのことを知る作者は、恋とは、老年とは何かを問いかけようとした。見奈子は、形を変えた作者である。
 空中に大きな円を描く。円は大宇宙である。自然宇宙と一体となり、己の雑念を無にして仏心のままになる。座禅でも、親指と人差し指で円を描く姿勢をとる。禅の世界でいわれている「円」から、タイトルは作られた。原稿用紙の枚数制限から、短い話になってしまったが、書き続けて欲しい大きなテーマである。          (島根日日新聞社客員文芸委員古浦義己)