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 随 筆 白寿まで生きる指きりしてしまう
                                                                          島根日日新聞 平成17年1月6日付け掲載

 柳友から斐川のシクラメン祭り≠ヨ一緒に車で行かないかと誘われた。距離から言えば、車でなくてはいくら健脚を誇っていても動けるところではない。早速甘えることにする。
 よく分かっているつもりだったのに、やっと探し当てた斐川のシクラメンの圃場には、ビニールハウスの棟が並んでいた。一面に今を盛りと色も綾にシクラメンが咲き競っている。ハウスの中に入ると、独特な香りにむせるようだ。早速、一鉢を選んで買い求めた。シクラメンは管理さえ良ければ、数ヶ月、いや翌年にも可憐な花を見ることが出来る。生命力の強い花である。ちなみに、花言葉は、内気、はにかみ、猜疑、嫉妬、とある。なにか頷けるようでもあり、そうでないような面もある。買って帰り、玄関に置いた。
 四十年前にさかのぼる。
 私は、視力を失った姑の看護十五年、さらに二人の孫の世話が重なっていた。その姑が逝き、孫二人も成長して小学校に通うようになり、一応手が離れ、解放感を覚えた。
 そのうち、主人も退職したが、大社中学の同窓であった尼緑之助氏から川柳いずも≠フ恵送があった。堀江さんという夫婦の川柳愛好者がおられ、それに因んでか、私達夫婦にも川柳を勧めるための思惑だったと思う。
 私もつれづれに読んでいるうち、何となく心惹かれるものがあり、最初に浮かんだのが、『シクラメン置いて玄関若返り』だった。
 それに添えて五句ばかり投句したのが、そもそもの川柳への出発点となった。主人は、「僕は国語の教師だ。短歌も俳句も川柳も生徒に教える立場だ」と言う。彼の自負心には私も到底歯が立たないことは良く知っていた。別々に結社に入るわけでもなく、淡々と詠んでいる程度に甘んじてきた。
 今にして思えば、私と同調して川柳をやれば、夫婦で競い合うことにもなる。それが不本意だったかとも思う。しかし、これは私の愚かな憶測だったかもしれない。
 忙しい年末である。シクラメンの懐旧の思いに浸ってばかりではいけない。年賀状を早急に書かねばならないのだった。
 それにつけてもまた思い出すのは、主人が亡くなる年の年賀状は、自分の近況の報告に新年の思いを込めて長文を書いている。いつもそれを読むのが楽しみだと言ってくれる人もあった。それが二千年の賀状は、住所録と共に年賀文を書いた葉書を差し出し、私に宛名、つまり表書きを頼むと言う。私は驚いたが、顔には出さず引き受けた。後で思えば、やはり亡くなる二ヶ月前のことであるから、億劫だったのかと思う。数え年九十五歳、さもありなんと思う間もなく、風邪から肺炎となり二月十四日、慌ただしく旅立って逝った。
 今年は、『喪中につき年末年始のご挨拶ご遠慮申し上げます』と書かれた喪中葉書が十枚も届いた。近年、稀なことである。
 年賀状には、年賀の言葉のほかに川柳仲間へは自作の一句を添えるのを慣わしにしている。それがないと何となく物足らぬ感があるからだが、毎年その一句に腐心する。
 考えた末、今年は『白寿まで生きる約束してしまう』と心に決めた。
 過般、大阪の川柳祭り≠ノ出席した際のことである。柳誌川柳塔≠ノある愛染帖≠フ欄に三句を投句する。選者は波多野五楽庵氏。ほかに茴香の花≠ニいう女性に限る投句欄もあり、私はそれに毎月のように、愚作を出していた。ある時、三句を投句した愛染帖に三句共に入選したことがある。驚き、嬉しかった。その年の祭りに出席した際、選者にお礼の言葉を述べた。それがきっかけとなり、今年も川柳祭りに声を掛けてもらった。話が弾む中で親近感が増し、歳を聞かれた私は冗談半分に「何歳に見えますか」などと言いながら「大正元年生まれの数え年九十三歳です」と言うと驚いた顔をされた。私の側に同い年の藤村〆女さんが居られ、二人の顔を見比べながら、「そんな高齢ならば、来年は表彰しなくては……」とも言われた。
 見回すと、私達二人が出席者のうちでは最高齢らしい。主幹の天笑氏に報告されたらしく、天笑氏が私達のところへ来られ、驚いたと言われて、表彰のことを語られた。私はすかさず、「ただ徒らに齢を重ねただけです。白寿まで中途半端です」と謙遜して言った。「それなら白寿まで頑張りますか」、「頑張りましょう」と、私達は笑った。
 たとえ、白寿まで生きたとしても、その齢ならもう川柳祭りに大阪まで出かけられるはずはない。励ましの言葉として素直に受け止めることにした。
 だが、約束として誓ったからには果たすべき義務がある。可能性の少ない指切りではあるが、挑戦する新しい意欲に胸が膨らんだ。またそれも楽しからずや……。
 とうとう、『白寿まで生きる指きりしてしまう』を年賀状の一句と決めた。いい年をして未だ娑婆に未練があるのかと、笑う人がいるであろう。しかし、私の本音を判ってくれる人も幾人かはいるだろう。
 私は変な期待をして、十二月十五日の年賀状受付の初日、市内と市外に分別した年賀状を出雲駅前の郵便局窓口に一番乗りで託した。

◇作品を読んで

この作品は、昨年末に書かれたものである。
 友人から斐川のシクラメン祭りに誘われ、花の見事さに感嘆する。その花を見ているうちに、四十年まえのことが甦った。川柳を始めた頃が思い出される。ふと気が付くと、年の暮れである。年賀状を書かねばならない。そして、作者は、また昔のことに思いを馳せる。
 幾つかの出来事に、作者は喜び、また、哀しみや嬉しさを感じ、原稿用紙に綴っていく。思いが素直に書かれた文章は、読む人の共感を呼ぶ。
 年賀状にはライフワークの一つである川柳を書いた。「白寿まで生きる指きりしてしまう」がそれである。いい年をして……≠ニあるが、そうではない。生きる喜びであり、余裕の人生である。今年も作者には、いいことがあるだろうと思わせられる。