随 筆 エピローグに虹を
遠山 多華
島根日日新聞 平成16年12月9日付け掲載
庭紅葉がそろそろ彩り始め、師も走るといわれる十二月が目前になると、いつも歳のことを思う。昔は正月が来ると一才という歳を貰ったものだ。 現在は満年齢を数えるようになり、誕生日をもって一才の歳を重ねることになる。正月に対する感覚と期待が、この頃は少し違ったように思う。 今年の夏は異常な炎暑であったが、この冬も暖冬らしい。とにかく、気象は人間の力ではどうにもならない。自然に任せるほかは無いのだ。 そんなことを思いながら、テレビのスイッチを入れる。どうも血圧に関する講座らしい。普通、血圧は百四十を越すと高血圧という。 昔々、私の記憶では年齢に九十を足した数字の血圧が正常と聞かされた。今の私は九十三歳だから、それに九十を足せば百八十以上となり、これは高血圧である。そんなはずはない。 どこからそんな間違いが出て、それを信じていたのか。だが、いい加減さを笑えない事でもある。普段正常な私はであるが、時々百六十を越すこともある。 高血圧は、六十パーセントが遺伝的なものといわれる。 父は数え年で五十五歳の時、入浴中に脳卒中で倒れ、意識が返らぬまま五日後に死亡した。母は七十七歳、奇しくも喜寿で羅病三週間後に永眠した。兄は八十歳の時、脳梗塞になり一時回復したが、二回目の発作があったものの八十八歳まで生きた。いずれも血圧は高かったのであろうが、昔は健康に無感覚だったのか、血圧など計ったものでなかった。 けれども確実に高血圧の系統なのだ。それに、私より一歳だけ若い甥が軽い脳梗塞で、一見病人らしい顔色ではないが、半身不随の車椅子生活である。 私もそんなありがたくない家系だから、ある日突然ということもあるかもしれない。 ということもあって、塩分を控え、体力をコントロールする健康体操を十年も続けている。 こうした危険性を孕んでいることは、逃れられない必然性だと思う。因果の絆に縛られるのも、自分自身の業であると諦めの境地でもある。 そんな暗い絆をあさるより、ただ二人だけの兄妹の絆に憶いを新たにする。 兄とは十三歳の年齢差がある。ちなみにね十歳上の姉がいたらしいが、早逝し、私は知る由もない。 だから、父が早死にして以来、兄が父親代わりになってくれ、私も兄を尊敬し、また甘えもした。 小学校の頃、勉強もよく見てくれた。 新暦ともいわれる太陽暦は、太陽を元にし、旧暦である太陰暦は月を目標にして出来た暦であると、兄に聞かされ、それを綴り方に書いて褒められたことがある。嬉しかった。 今は保護者会というらしいが、父兄会にも兄が面倒がらず顔を出してくれて有難かった。 兄は母に似て、書も絵も巧かった。私はと言えば、父似だったらしい。父には悪いが、あまり映えない方である。 昔は、鎮守のお祭りには奉納の神楽舞いがあり、兄は手腕をかわれ、舞台画も見事に描いた。もちろん、舞いの方も祖父の後を継ぎ、その伝統を守っていた。重箱に料理を詰め筵を敷き、その神楽を楽しんだ記憶もある。器用だったから、横笛や尺八なども自分で作り、童謡なども吹いて聞かせてくれた。 驚いたことに、速記の勉強もやっていた。果たして、どれだけ役に立ったは知らない。何でも新しいものに挑戦する性格だった。私は兄に、負けず嫌いの根性を貰ったかもしれない。兄にそう言えば、あの世で苦笑いをするかもしれない。 絆ということから言えば、趣味を通しての師と友達に恵まれ、励まされる毎日である。月に三回の文学教室も楽しい。私より若い人ばかりで、六十とか八十の手習いというが、私は九十のそれである。目障りでしょうが、ご寛容よろしくと、いつも声には出さずに呟く。 頑張れと、背中を押してくれる亡夫を意識しながら、若干の余生というエピローグに虹を添えたいと憶う。 |
◇作品を読んで
作者の根底にあるのは、出会いを大切にしていきたい、人を大事にしたいという思いである。この作品、というよりも毎週のように生まれる作品には、それが溢れている。 一期一会という古くからの言葉がある。彦根藩から大老になった井伊直弼が茶の手前を学ぶ傍ら、その思うところを書き残した『茶湯一会集』にこの語がある。この書は、直弼が三十歳頃から書き始め、推敲を重ねて清書本が完成したのは桜田門外の変、四十六歳の直前頃かといわれている。 亡夫の後押しもさることながら、一期一会のエネルギーも同じであろう。文の終わりには、若干の余生に虹を、という言葉があるが、どうしてどうして、ますますその筆は健在である。 |