随 筆 白い骨箱
穂波 美央
島根日日新聞 平成16年10月28日付け掲載
あれは確か、私が女学校一年生の夏休みのことでした。 日本は戦時真っ最中で、その一年後に終戦を迎える事になるのですが、この年はまだ及ばずながら私は勉強もしており、夏休みもありました。 ある日、突然に祖母の住む京都の山科の家へ呼び寄せられました。 出征した後、肺結核を病み、除隊して養生していた叔父が亡くなったからです。 祖母は納骨を前に、嫁した娘の病気の看護をしなければならないので留守になりました。そこで、急遽、父を除く私ども母子四人がその霊を守るために行くことになったのです。 亡くなった叔父は、幼い時から私を特に愛しんでくれていました。 「八ちゃん、八ちゃん」 私は、そう言って慕っていました。 変わり果てた叔父の入っている骨箱は白い絹の布に包まれて、八帖間の床の上に、写真と共に安置されていました。 聞けば喉頭結核で、亡くなる前は水も飲めなくなり、欲しがる氷もガリガリ音をたてて噛むばかりで、喉を越さなかったそうです。衝撃的な話に涙が止まりませんでした。 それでなくても食糧難の時代でありましたから、都会に出てどうして飢えを凌いだのかは忘れてしまいましたが、当時、母は子ども三人を食べさせるのに、どれだけ心労を重ねたことだろうと思います。 その薄れた記憶の中で、今でもその時の悔しさが昨日の事のように思い出され、その哀れさに胸が締め付けられる事があります。それは、父から送られてきた箱一杯のパンが全部黴だらけになっていた事なのです。今なら一日で届く宅急便がありますが、当時は鉄道輸送で何日もかかったものです。ひもじくて、喉から手が出そうでなのですが、どう見てもどう思っても食べられなかったのです。 そうしたある日、京都市内に住む、もう一人の叔父が私達を訪ねてきて話しました。 「蛇がザーザーと音を立てて、移動するのが聞こえる」 天井を指差して、そう言うのです。 私達は山科に着いた日から、遺骨が安置されている部屋では淋しくて、次の間の四畳に蚊帳を吊り、その中で寄り添いながら寝ていたものですから、もう身の総毛立つ思いが致しました。 重ねて叔父が言いました。 「八ちゃんは巳年生まれだったし、それに義姉さんが好きだったのではなかったかな?」 母は、ちょっと顔色を変えたように見えました。そう言われてみれば、母の義弟を憎からず思っていた素振りから、私も思い当たる節があったのです。 その夜の事でした。 階段の方から、大きな音を立ててドタン、バタンバタンと何か落ちてきました。びっくりして、恐る恐る戸を細めに開けて見ました。 「蛇だ!」 私は咄嗟に叫び、後の者が覗くひまもなく戸をピシャンと締めてしまったのです。 「本当かね」 「だって、とぐろを巻いていて、真ん中から首を持ち上げていたもん」 「縄だったじゃないかね」 「縄なら誰も居ない二階からどうして落ちるのかしら。地震ではあるまいし」 言うが早いか、不審がる母を尻目に、皆を連れて転げるように逃げ出しました。どうしてお隣の家へ駆け込んだのかわかりません。 事情を話し、その夜は、泊めてもらいましたが、興奮していて眠れませんでした。 明くる日、いつまでも恐がっていてもいけないと、帰ってみました。 びくびくしながら、階段の戸を開けました。 「いない!」 何もありません。縄ならそこに残っているはずです。 「やっぱり蛇だったのだ」 誰もで、頷き合いました。 蛇は夜な夜な骨箱から抜け出し、私達に見えないように気付かれないように、這い回っていたのではないだろうか。その蛇が、たまたま誤って階段から滑り落ちたのではあるまいかと、今にして思うのです。 今は亡き母に、そんな話をする術もありません。 私は学校が始まるというので、先に父のもとに帰りましたが、その後、母と幼い妹と弟は、どんな思いで、過ごしたのでしょう。 一ヵ月後に納骨を済ませ、出雲に戻ってまいりました。 あれから六十年経ちました。妹や弟は覚えているのでしょうか。 |
◇作品を読んで
世話物と幻想的な作風で、明治から大正、昭和の三代にわたり文壇で活躍した泉鏡花は、絢爛豪華を極めた文章と奔放な想像力で、独自の世界を開拓した。作品の底にあるのは、人間の心の奥底にある痛みや哀しみの記憶であり、それは記憶のまた奥のそれということも出来るかもしれない。 この作品の蛇と骨箱という題材は、作者の経験である。まさに幼い頃の記憶であり、ふっと泉鏡花の世界を思い起こさせるような雰囲気を持っている。 身近にいる人を憎からず思っていた女の情念に応え、蛇となって夜な夜な現れたという小説的発想で想像を膨らませて書いてみると、更に面白い作品になりそうである。小説の題材というのは、別の視点から見るようにすると、どこにでも転がっているように思う。 |