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随筆 記 憶
  
         佐藤 文香   
                                                                        島根日日新聞 平成16年7月22日付け掲載

 古希を過ぎ、脳にある記憶の海馬が減った。日常生活でも分かるようになった。良いことも悪いことも、記憶に霧がかかったように少しずつ薄くなり始めたことを自覚している。
 その中で鮮明に残っているのは、やはり太平洋戦争の時代である。
 昭和十六年から始まったそれが、十八年には戦局が悪くなり、学徒動員が始まった。
 当時、私は国民学校の五年生であった。学業をするのは年間の三分の一で、後は出征兵士の留守宅に派遣されて農作業に従事した。冬には、幹線道路の雪かき、山からは木材や炭を背負って下りたこともある。
 食事といえば、米を食べるのは一日に一回で、夕食は芋、朝はすいとんで、お腹がいっぱいになったことはなかったのである。
 六年生になった秋も遅い時期のことだった。私は、学校で淡いピンクの泡を氷水のように机の上に吐いて倒れた。医者に行っても薬はなく、熱と息苦しさで横になっても眠ることも出来ない。炬燵にうつ伏せになって休んだ。
 祖母の寝食を忘れての看病で一命は取りとめたが、同じような病気で同級生三人は亡くなった。
 六ヶ月の休学をした。体力もなく、骨と皮だけになった体を丈夫にしなければならない。幸いにも山里に疎開をしていたので、少しずつ山歩きを始めた。それが次第に面白くなり、高い山にも登るようになった。
 朝から風がそよとも吹かぬ夏休みのある日。ラジオ体操の後だった。一年上の健ちゃんが、雲見の滝に行かないかと誘ってくれた。三刀屋町の山間にある滝で、飯石川の上流にある。雌滝と雄滝からできていて、雄滝は水量も豊かで、高さは三十メートルばかりである。雌滝は雄滝よりも、やや小さい。滝壺の右岸に、高さ百メートルの屏風岩があり、渓流からは河鹿の声も聞かれるという。
 男子二人、女子三人で行くことになった。
 以前、藁を木槌で叩いて柔らかくし、自分で編んで作っておいた草鞋を出した。
 その頃は、日曜になると藁を叩いて自分の履く草履を作ったものである。雨の日用の履き物は竹の皮を水に漬け、裂いて草履にした。鼻緒の部分は布で編み、竹皮の間に入れて作ったものを誰もが履いて行った時代だった。
 水筒と小さなお握り二個を腰にぶら下げ、三刀屋の町中から二十キロ奥の飯石村に向かった。十キロばかり歩くと、飯石郵便局があったのでトイレを借りて休憩をした。水を汲み上げるポンプは、手押しだった。その柄を交代で押し、冷たい井戸水で喉を潤した。
 三キロばかり行くと上り坂になり、大八車しか通らないような狭い道になった。黙々と歩いた。
「ここから下りるぞ」
 そう言った健ちゃんの後に付いて落葉樹を分けながら下りると、岩を削って作った道に出た。ゴーゴーと滝の音がした。進むにつれて、顔に水しぶきが掛かるようになった。
 標高約四百四十六メートルの高瀬山から落ちる水は、雄滝と雌滝の二段になっている。五十メートル下の滝壺は、水しぶきと霧で見えなかった。
「滝の上に行ってみーか」
 暫く眺めていた哲ちゃんが言う。岩に掴まって足場を固めながら、登って行った。
「わあー、凄い」
 誰もが目だけを岩の上に出し、三十メートルもある平らな岩の上を水が滑り落ちるのを見ていた。手が冷たくなり、それこそ滑りそうになった。恐くなり、手に息を吹きかけながら、ゆっくり下りた。
 広い道に出ると、へとへとになって弁当を食べるのも忘れ、草の上に皆が寝転がった。服は濡れている。汚れだらけで帰れば叱られることだけが頭にあり、滝のことは頭から消えてしまった。ミンミン蝉の声を聞きながら、うとうとしていた。
 がさごそという誰かが起きる音で目が覚めた。お握りを食べた。食べると現金なもので、元気になり帰ることにした。帰り道、(凄かったね)と口々に言い合った。
 夕暮れが近かった。
 配給の苛性ソーダの入った石鹸粉を持って出て、家の後ろにある小川で服を洗った。竿に干し、(暑くて汗びっしょりになった)と言いながら下着だけで家に入った。
 夕餉のふかし芋の湯気で姿もはっきり見えないのを幸いに、こそこそと二階に上がった。
 夏の一日が終わった。

◇作品を読んで

 六十年も前のことである。太平洋戦争の末期だった。小学校五年生だった作者は、町中から山里に疎開した。誰もが辛い暮らしをしていた時代である。ある日、友達と雲見の滝まで遠出をすることになった。草鞋を履き、握り飯を弁当にして出かけた。滝は凄かった。家に帰り、汚れた服を内緒で洗う。夕暮れだった。
 出征兵士の家での農作業、草履作り、配給、乏しい食糧のために夕食は蒸かし芋……。当時の厳しい世相を背景に、子ども達はそれなりに楽しんでいたことがよく分かる。 
 遠い昔の記憶は、少しずつ薄れていく。どちらかというと苦しかったことは忘れようとするかもしれない。こうして、書かれた人生の記録は貴重な資料であり、自分史の一編でもある。