宍戸家の成立と歴史

常陸宍戸氏
源義朝は平治の乱(1159)に敗れ、尾張の長田庄司忠致を頼ったが、
忠致の変節により殺された。義朝の長男頼朝は、平氏にとらえられた
が、平清盛の継母池ノ尼に命を助けられ、伊豆の蛭ヶ小島に流され
た。弟義経、範頼は隠れて難を逃れた。
末弟知家の母は宇都宮宗綱の娘で八田の局という。知家は外祖父宗
綱に養われ、源姓を偽り、八田四郎知家と名乗る。
治承四年(1180)兄頼朝伊豆に挙兵するや知家これを助けて功あり、
右馬頭に任ぜられ従五位下に叙せられた。
正治元年(1199)頼朝没後入道して専念という。
知家に八男あり、四男家政、常陸国宍戸庄を領して宍戸を姓となす。
家紋は州浜を用う源家の祖、六孫王経基の六の字にかたどる。これよ
り家周、家宗、家時、知時と続き代々常陸に任す。

安芸宍戸氏の起り
知時の子朝家は、はじめ朝重と云い、文武兼備の良将で、元弘三年
(1333)五月、足利尊氏とともに上洛し、六波羅を落とし、功により従五
位上に叙せられ、翌建武元年(1334)安芸守に任ぜられ、甲立の庄を
賜り、朝家と名のる。
 安芸に移った朝家は、上甲立菊山山麓に柳ヶ城を築き、これに拠っ
たが、此城適せずとし、向かいの元木山に五竜王を勧請して水を祈
り、功ありて水を得て、新城を築き五龍城と名づく。また山を五龍山と
称す。これが安芸宍戸氏の始まりである。
基家、家秀、持家、興家と続いたが、興家性暗愚にして正邪善悪をえ
らばず、為に下民悪政に苦しみ、宍戸混乱の極みに達した。
 時恰も、常陸宍戸壱岐守時宗の子、四郎基家諸国修行の途中、五
龍城に立寄る。
諸臣元家の賢なるを見て、遂に興家にせまって元家に譲らしめた。時
に文明十年(1478)七月十日のことであった。
朝家より興家にいたる五代を先の宍戸と云い元家より以後を後の宍
戸と称する。
元家はかくて五竜城主となり、文明十年八月一日、五龍城に四柱八壁
と称する重臣達を招集し、家風一新の候々を認め皆に読み聞かせた。
老臣共はこれに対し起請文を差し出し忠誠を誓った。
(此條々は今に伝はりてあり)
 元家に三男あり、長を元源、中を隆兼、末を又次郎家俊と云う。
 永正元年(1504)元家は五龍城を長男元源に譲り、隆兼、家俊をつれ
て、深瀬祝屋城に隠居した。隆兼は以後深瀬氏を名乗り、深瀬弾正小
弼隆兼という。

宍戸氏は毛利と境を接し、互いに譲らず、度々合戦に及んだが、知将
毛利元就、両家事を構えるより和を結ぶにしかずと考え、天文二年
(1533)両家和睦提携を約し、天文三年正月十八日元就五龍城を訪ね
賀詞を述べ長女を宍戸元源の孫隆家に嫁すことを約し、今年三月三
日婚姻の式を挙ぐ。五竜姫というはこれなり。
 これより両家の絆堅く結ばれ、明治に至るまで毛利家の一家老として
宍戸家は栄え、維新後は毛利は候爵、宍戸は男爵に叙せられる。

宍戸司箭家俊
 宍戸家の三男家俊は、幼より利根人に超え、深く兵法に志し、若くし
て頭角を顕すも自ら足れりとせず、長じて厳島神社に参篭すること七
日、食を断ち一日十二度精進潔斎し一心に祈願した。満願の日、神殿
鳴動して庫の鍵一箇を授かる。
 家俊これを見て大いに怒って曰く『某愚賤なりともなんぞ富貴を望ま
んや、願う所は兵法にあり』と。
 神殿に件の鍵を投じ、又七日の精進を行う。
 満願の日、夢中に明神出現し給ひて曰く『汝この間の誓願虚ならざ
らんや、然れども汝は丙午に生れ天上の水なり。潤沢の果あるを以っ
て富により名成さしめんため鍵を与えしなり。然れども汝信心私なく、
肝胆を煎り丹腑を砕くによってこの両種を授くとて白羽箭一手と両頭
不動明王の画一幅を給わり、是を以って愛宕に登り魔法を修すれば
必ず験あらん』と。
 目覚めれば二種の賜物枕頭にあり。家俊大いに喜び二種の品を三
拝し、神前にて自ら改名し司箭と名乗る。
 直ちに山城の国愛宕山に登り、太郎坊に誓約して刻苦精励、遂に凡
夫の域を脱し居乍らにして宇宙の変化を知る。
 司箭洛中を徘徊して奇行を為すの由、正親町天皇の上聞に達し、叡
覧の勅詔があった。司箭勅に対えて曰く『凡そ天地の間各々主あり、
何の奇何の妙か候べき。然りと誰も、論言辞す能はず。御祈の為北野
千本松原に於いて、護摩を執行いたすべく、併一の妙には愛宕山に
煙を合すべし』と。
 吉日をえらび、護摩を焚きしに、果たして愛宕山に煙を合わせた。洛
中貴購奇異の思いを為したと。
 今護摩の床百日に及ぶは其例として、この寺を名付けて長床坊とい
う。これ宍戸の宿坊なり。
 家俊年経て五竜に来り、元源に向かって曰く、某年来の願望成就
す。されば世間に排個して褒貶の口にかかりて益なし。
 今より親類を離れ、人倫の交わりを絶ち、無為の境に入る。孝長の道
も今日限り、これは某修行中当家の為に祈願をこめたるものなりとて、
赤字に金の日輪を描いた軍扇に自筆で梵字を書いたるものを取り出
し『この扇を持って戦場に向かいたまはば玉箭の難あることなし。伏
兵、夜討其他不意あるときは、この扇に必ず奇特あるべし。
 勝負は時の運、死は期あり天命に皈す。司箭が力の及ぶところにあ
らず。衆を愛し佞奸を退け、衆と苦楽を共にしたまへば、戦はずして勝
ち、招かずして国治る。
 またこの両頭の不動は厳島の神詔によりて某得たる霊佛なり。当家
の守護として崇敬怠る勿かれ』と。
 兄弟終夜語り、次いで祝夜城に到り、『吾多年学びし兵術の妙理を
伝え置くべし』と。兵書を授け、密法を伝え『これは源義経、鬼一法眼
より伝来の軍記ならびに、太郎坊より伝えたる剣術なり、宍戸、深瀬、
末兼三家以外伝うことを許さず』と。斎戒すること七日にして後これを
伝え、曲川作の一腰を隆兼に譲り、其身は愛宕山に皈り、柳樹を刻し
て自像を作る。
 愛宕山麓清滝川の上に坐し姿を水鏡に映して刻した。其貌山伏の姿
にして鈴懸に尊勝陀羅尼を梵字で書いた坐像なり。愛宕山太郎坊の
脇立司箭の像がこれである。異事あるときはこの像変じて、或いは沙
門となり、女体となり、衣冠した姿となる。これ愛宕七不思議の一とい
う。
 司箭の像柳を用いたる故、宍戸の門葉柳を楊子とせず。又宍戸守護
として柳を以て三足の狐の形を作り、稲荷として崇敬するは、宍戸の
遠祖知家の母八田の局、大織冠鎌足の後胤を以ての故なり。
 その他宍戸柳を以て器とせず。


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