自分の剣術に法則のあるのは、丁度大工に規矩準縄のあるのと同じ
である。大工がぶんまわし、さしがね、水もり、墨なわ、などの道具をも
たなければ大工の仕事が出来ないと同様に、自分の剣術にも一定の
法則があるので、この方則にしたがっていかなければ、剣を学ぶこと
は出来ない(これは、剣術ばかりでなく、書道、華道、茶道みな同じで
ある。ピアノにしてもバイオリン謡曲にしても皆そうである。何十人のバ
イオリンの弓の上下が一致しているのは、皆法則通り学習しているか
らこそ合奏ができるのであって、この基本的な学習こそ規矩という法
則なのである。だから技は必ず良師を選んでその法則を学ぶべきもの
で我流では真に大成することは難しい)だから教える者は必ずこの法
則を教えるのであるし、学ぶ者もまずこの法則を学びとるのである、こ
の法則を学びとってさえおけば、その時々の変化というものは、必ずこ
の法則によって処理できるものである、だから法則を考えないで変化
にだけ対応しようとするのは本を忘れて末を求めるようなもので、それ
こそ誣であり、妄であるというべきである。元来この規矩と言う物事の
法則というものは天地自然の道理から発生しているものである。天地
はこの道理があるから(天道といい地道というのはこの事である)寒暑
があり昼夜も交替するのである。何事でも事物動静どんなにかすかな
事といっても、この道理に左右されない者はない、まして人間は僅か
に五尺の身体をもって万物の霊長となっているではないか、これは心
にその道理が供っているからである(中庸に誠は天の道なり、これを
誠にするは人の道なりということを言っている。誠(真事)は、天道であ
る。この天道である誠を人がおのおのわが身に生かしていくのが人道
である。天道でも人道でもその意極は誠であるから「誠之為貴(まこと
これなすとうとしと)」というのである)
剣道というのはこの道理ある心をもって道理にかなっている技に及
ぼしていくのである。だから物事の道理を考えないような誣妄(いつわ
り)では、その道に達することができないばかりでなく、却ってこれを害
するものなのである。慎まなければならない。自分の剣道は技を鍛え
ながら実は心を治めているのであり、心を鍛えながら実は技を治めて
いるのである。この心と技をお互いに治めあって始めて自然の道理に
従っていくので、その道理を無視してはならないと、平素やかましく言っ
ているのがこの規矩即ち剣道の準拠する法則なのである。苟(いやし
く)もこの法則の中に習い覚え真に努力を重ねて技を練り心を正しくし
て一事に集中し、少しでも邪な心がその間に動かないようになれば、
これこそわが技の至誠という境地にいたったのである。
この至誠の域に到達するのは容易なことではないが、修練のあげく
その域にいたればそれこそ融通無碍の境地に到達したので、撃てば
必ずあたり、刺せば必ず入る。進む時には進み、退くときには退く、時
には処女の如く時には脱兎(逃げていく兎)の如く、変化は窮りなしで
ある。敵に対し戦に臨んでも自分の方には実がみちみちているから相
手のすきが一目でわかり、刃を交えなくても勝敗は判定されるのであ
る。然るに昔から剣の技を論ずる者が何と言っているかというに、勝敗
は大抵の場合運命であると言ったり、剣の奥義は禅であると言ったり
する(剣禅一如)。分かったようで分からぬから、更に問いつめると「こ
れは以心伝心で言葉では表現できない」と逃げてしまう。これは心と技
の二つに分けて考えるからそうなるのである。大体人間は気質には剛
なる者もあれば又柔なるものもある。だから師となる者には指導法が
多いのであって、人々の気質に応じ或者は進めさせ或者は退かせる
(要するに個別指導である)
ところが現在の剣師はそうではない。剣を学ぶには手本を求めず心
を空にし、心を動揺させず釣り合いのとれていることを主として、弟子
を教導しようとしている。だからどう進退していいか、どう操縦していい
かよりどころがない。このような状態では剣の法則というものがどこに
あるかと言っていいくらいだ。かの那須の與一が屋島の合戦で扇の的
を射たことは昔から誉め讃えて「あれは神助である」といっている。自
分はそうは思わない。與一は平素から技の修練に磨んでいたから、心
と技と至誠一如の境地に到達していたのである。だからあの場合でも
何の疑惑もなくただ至誠の境地にいることが出来たのである。だから
百発百中は理の当然で、心を誠にして一事に集注すれば神も自ら助
けるのである。自分は少年の頃から剣を学び習練してやまざることここ
四十七年である。近年安芸の国に赴き築山君の指導を受けている内
に、わが技の正統はここだと理解するに至った(それは剣の法則を学
び、技と共に心を練り、精神を集中して技を練れば技は必ず上達する。
心と技を離ればなれではいけない。技が心を貫き心が技を貫く、即ち
貫心流であると自得した。)この大本がたてば、末は自ら伴ってくるの
である。わが門に学ぶ者がこの精神でいるならば、自分もまたその精
神で技を教えるであろう。だから各自皆学んで自得することができるで
あろう。自分には別に秘伝とか秘法というものはないのである。
註
昔から「型より入って型を出ず」とか「故人の跡を求めず、故人の求
めたるところを求む」とか色々言われている。模倣だけで終わっては故
人以上になれぬことは理の当然であるが、だからといって故人の権威
を尊重することなくして道に入ることは出来ない。「学ぶ」とは「まねぶ」
ことであり「まねぶ」とは「まねる」ことである。「まねる」とは故人の開
拓した法則をわが身につけることである。学習の第一歩は先ずこの
「まねる」ことから入門しなければならない。「学問」というは故人の学
んだあとを問うのである。
次に「技」は「心」が成長するにつれて「技」も成長するのである。「技」
と「心」を二つに分けて考えてはならない。「技」を習練することは実は
「心」を習練することであり、「心」を習練することこそ「技」を習練するこ
とにつながるのである。この境地に至れば「精神一到何事か成らざら
ん」ということが如実になるのである。この「一到」を「ひとたび至らば」
と解釈する者がある。その解釈によると「平素怠けていてもひとたび至
らば何事も出来る」というふうにとれるが、何事でもそんなに甘いもの
ではない。「一到」とは「一事に精神を集中させること」で、この状態に
到達すれば何事も出来ないことはないというのである。
貫心流というのはここの道理を解いた流派である。そして最も大切な
ことは「平常心これ道」というように、ただ剣に対した時だけの心構えで
はなく日常すべて剣に対する時の心構えで精神を鍛錬して行くことで
ある。「一道は万道に通ずる」という言葉があるように、ここまで鍛錬が
積めば何時いかなる敵(事件)に対しても驚くことはない。泥棒を見て
縄をなったり、一夜漬けの試験勉強をしたり監査があるというので俄
にうろたえてその場を切り抜けようとしたり、技と心が離ればなれにな
ったりしているような事はすべて「貫心流」の求めているものとは程遠
いものと自戒しなければならない。
昭和五十一年八月九日 白克
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