「在臆話記」に武田物外の記事が記載されていると、米子市の山陰歴史館・福原館長様に資料を提供していただきました。この資料は、「新修米子史第九巻資料編・近世二」に掲載されているそうです。
「在臆話記」の著者岡千仭(おか・せんじん)は、幕末・明治の漢学者で、江戸昌平学に学び、鹿門(ろくもん)と号し、旧仙台伊達家藩士でした。嘉永七年(1854)に広瀬旭荘は伯耆国へ来遊してから七年後の文久元年(1861)七月に米子を訪れました。一と月ばかり米子・淀江・松江、そして大川寺にも足跡を残しているようです。広瀬旭荘の足跡をまとめたのが「在臆話記」です。 |
二十一日 米子藩宰荒尾氏の治下を見物してまわる。因弓湾(弓ヶ浜)は良港、戸数三千、米子城下はいよいよにぎやかなり。(略)
長平(人名)の案内にて宝蔵寺を過ぎるころ、僧物外を見る。この僧怪力有り。金棒を手にし、体を預け、歳は既に七十にして、力なお衰えず。短身痩躯(背が低くてやせている)鉄漢のようには見えない。俳歌をもって浪遊す。仙台人に聞くと、小野寺鳳谷がよく知っている。鳳谷の描いた耶馬渓図に出ていると。
帰途は既に夜。月色は絵の如し。長平と別れ、樋野川をぶらぶらと歩く。水温は燃えるように暖かい。昼間の暑さを知るべし。
この物外は尾道の禅寺の僧で、鳳谷、雪城と西遊の時、尾道に在住していた。それで耶馬渓の図を描く。鳳谷もまた物外の怪力の数々を語る。怪力の名は世に聞こえたる僧なり。堅板を拳骨で打つと、殴ったところが凹むと。(以下略) |
原文はカナ混じりの漢文です。上記のように意訳しましたが、随分間違っているかもしれません。間違っている箇所をお分かりの方は、メールにて教えて下さい。 |