拳骨和尚拾遺

 1990年春号 禅画報に中山英三郎先生の文が掲載されておりますので、紹介します。
拳骨和尚拾遺

中山英三郎(旭水)

岡山県矢掛町、著者・中山英三郎氏(故人、昭和46年死去)の実父田辺虎次郎は物外和尚の創始した柔術不遷流の第三世を継ぎ、物外和尚の臨終に立ち会い、その十年を随侍した直弟子であった。英三郎氏は幼少から和尚の人となりを父から聞かされて育ち、稀代の傑僧である和尚の真骨頂が忘れ去られては惜しいと、不遷流の継承と伝記資料の研究に多年を過ごした人で、地元の「矢掛新聞」に”拳骨和尚の逸話”と題して昭和41年から44年までの約百回近く連載、物外和尚の日常のありさまを詳細に紹介した。本稿は、その中山氏の原稿の一部を抜粋した。

 物外和尚の酒量は普通人以下で、今日で言う健康上養生法の一種で小杯三五を過ごされなかったという。その証左となるものに大阪四ツ橋の酒造家三谷善七宛の自筆礼状に明らかであり、又大阪の文豪貫名海屋が物外に贈った小瓢文に依って窺われる。今、参考にその文を記す。「僕に一小瓢あり。太だ小なり。僕に在っては不足、和尚に在っては余り有り、世上は従来其人に逢うを以て好適と為す。物亦た宜しく爾(しか)るなり。便ち以て座下に呈す。物外和尚侍下。方外辱知翁貫名苞印印」(原漢文)。
 かって子が母より聞く。その娘時代に二三度和尚の給仕申上げた際、お酒はあまり召しあがらず「おれはお酒は嫌いだが、この鯛のさし身はよばれるぞ」とおっしゃったと母の話しが今に私の耳に残っている。
 拳骨和尚は道中の早足で有名であった。わが父三世は壮歳十余年間、家来として随身諸方に随行した。その父が晩年の思い出話しに、私はよく聞いたものである。父の言わく「わしが方丈様のお供をして旅を歩くのに何時でも駆け足風に歩かねば追随出来ぬ、若者であるのに−。おかげで疲労してその夜はよく眠ったものである。そこで早足の方法をお尋ねすると、まことに簡単で@道をまっすぐ歩けA余所見をするなB八人連れ則ち右に四人左に並んだりすることをやめよC左足をうんと踏み出せD手を振って歩けとのことであった」。
 物外和尚には園芸趣味があった。その種目は実に多種多様で先ず門前の畑は菜園。境内地を利用して柿、杏子、桃、梅桃、柘榴、無花果。栗は裏山岸に植え、また畑の一隅には茶を植えて新茶を喜び楽しんでおられた。以上の色々の果樹は和尚が入山と同時に着手、年々多くの実りがあった。しかもこの果実は一切挙げて村内子供たちが登山遊寺の活動中に用いて児童の教養に使用された。このため子供の行動が良くなり、モノを壊したり落書きをするもの皆無になったという。
 さらに本草科では菊、蘭、万年青。特に牡丹花と芍薬を愛し、最も丹誠を込めて秘蔵し愛護しておられたのが長崎から手に入れられた仏手柑の大木二株であった。予かつてわが父より聞く。「和尚は園芸栽培の名手で、蘭や万年青の葉でも勢いよく二尺以上に伸び、しかも曲がりの乗れ葉がなく元気よくピンと立ち上がって居った。何かのコツがあると思われる。そして数多きを好まず通例二三鉢で交互に座敷に置かれた。菊花は赤白黄三色で窓前の花壇に作って居られた。また泉水の向う側には芝蘭の花盛りも見られた」という。
 和尚には、篆刻の余技があった。和尚の印刻は雅友のために彫ったものなど相当あると思われる。私が知っているのは、京都の武田相模守様の「一外」二字印、「方水」の二字印があり、大阪では三谷不二女史の「藻魚庵」と「不二」との二刻印。なお和尚使用の印判には小品款冐用に「餘聞」の二字刻があり、下駄印で「物外」二字刻があり、竹根七分角で「物外奉祈太平」の六字刻印がある。さらに珍しい作り物には朱丹軸払子で柄の底片に「南海道物外」六字の径一寸四分小判型篆刻印がある。
 いま旭水文庫に保存する物外和尚の使用された印譜鑑をみると四十七面が捺されている。無論一顆で百面彫刻の二面となっているのが大型物に多い。その篆刻者の判明しているものは天保元年庚寅仲秋細川林谷山人篆と印側の一面に記してある。また天保二年辛卯仲秋、頼子常が来訪して「松山藩」の三字一面と「沙門物外」の四字一面の二個を彫刻している。子常は頼綱のことで山陽外史の従弟で文書を能くす。
 先日、泥仏庵文庫の反古中から、物外和尚の若かりしころに書かれたメモの断片を見た。和尚の言わく、自分が早くから僧堂に入って等輩と共同生活をするに当たり、率先人に進んで行動するようになり得た動機があった。
 一日某家に遊び子女のひもとく一冊の教養書を散見した中に、それ婦女子は若くして親に従い、嫁して夫に従い老いて子に従う。これを三従の道と教え、夫は外を勤め婦は内を守る。百行の善事も堪忍を第一とす。特に慈愛の心深きこと肝要なり。また言う婦人に四行と七去の教えあり、四行跡の第一は婦徳、第二婦言、第三婦容、第四婦功という。最後の婦功は、紡績・裁縫・洗濯・食事の所業なり。或は宗王の夫人伯姫の災火を描き、或は姚玉景の雌燕を引きて教えたり。陶渕明も女子それ然り、男子豈に是れに劣らんやと。爾来僧衆中活動家の一員として発奮勉励これ努め、同僚中の非を助けて自ら実行し、万事指導力を発揮し毎日朝夕の勤めも完全に果たされ、遂に一生涯活動、行楽に恵まれたと記してある。
 和尚は平常、門人や民衆の教化に就いて気を配っておられた。その証拠となるものに五ヶ条の条目刷り物が泥仏庵文庫に保存されている。ここにその全文を記す。
 「条目一君臣父子夫婦兄弟傍輩門者はすべて累世の因縁と心得相互にいたわり上を敬い下を憐れみ扶助す可き事、一総ての号令を厳重に相守り冥加を存す可きを当家の家風の第一と心得べき事、一礼節正しければ不和という事を知らず物の仮令にも人をあなどり無礼ヶ間敷義これなきよう大切に心得べき事、一内輪の事情は何事に依らず他向へ漏し聞かす間敷沈密に相守るべき事、一衣食住は粗末を厭う可からず聊かたり共奢りヶ間敷ことを好み我儘を働き条目を背く者は厳重の沙汰に及ぶ可き事、右条目相定め申す処如件、慶応三年丁卯春、物外道人謹んで記す」。
 父、往年物外和尚に随行して上京し三条木屋町の武田相模守様別邸に居た時分、ある役所の方が来訪して和尚と懇談されて半折一枚を所望された。和尚は即座に左の一文を認めて渡された。それは論語巻之下李氏第十六の一節を引いたものであった。「天下有道則礼楽征伐自天子出、天下無道則礼楽征伐自諸侯出、自諸侯出蓋十世希不失矣、自大夫出五世希不失矣、陪臣執国命三世希不失矣、天下有道則政不在大夫天下有道則庶人不議」。
 物外和尚は常にわが父に対し「人間は正直が第一である。何事も職務に忠実で仕事にかげひなたがあってはならぬ。些細のことでも注意して行なえば他人から喜ばれるものじゃ。夢々油断は大敵じゃ。善は小事でも人には快感を与える。悪事は小なりとも絶対に犯してはならぬ。この善事を頭に判別するのが人間修養の徳である。決して心を睡らせてはならぬ」と教えられていたと、よく父から話を聞きました。
 物外和尚はすこぶる愛石家で多種多様の翫石を所持されていた。尾道のことを一名、玉の浦と呼んだが、和尚はこの地名に因んで玉石という径約三寸の漆黒色で光沢のある美事な置物石があった。神戸の四世田辺又右衛門が襲蔵していたが只今は如何や。また太古石という珍しい高さ五寸のものもあった。これは中国太湖の石か、それとも形が太湖に似ているところから呼ばれたものか、天地両端が皮を張ったような灰白色の層が出来ていた。
 物外さんは晩年各方面から書画文筆の依頼が殺到するので、京阪でも旅行先でもまた尾道に居られても、中々に忙しいことであったと、近侍していた三世わが父田辺虎次郎が終始思い出を私に話してくれました。その書斎の中で急ぐ時には用紙の前端をひけひけとせがまれたそうです。また書き終えて墨を乾かすため紙ごとに鐔(こじり)や小づかのひつを二三枚ずつ乗せて回ったという。このためばかりでなく元来が刀剣の小道具類に趣味をお持ちで多数所持しておられたという。
 和尚は会う人ごとに父母のありがたさを呼びかけておられた。和尚の歌に「ちちははの大みめぐみの光りをば忝(かたじ)けなしと忘られなくに」がある。


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