拳骨和尚と出雲の人物

大正14年9月10日発行の『島根評論』に不遷流柔術第五代宗家 中山英三郎先生の投稿が掲載されていましたので紹介します。
 旧漢字で記載されていましたので、現代漢字に書き直さざるを得なかった字もあります。また、意味が分かりやすいように若干の読みや説明を付けました事をご了承下さい。
                 拳骨和尚と出雲の人物

岡山県矢掛中学校教諭 中山英三郎

 余頃日知友出雲の人、門脇武文君に送られたる、貴社発行の雑誌、島根評論を拝見す、有益の記事頁を追うて満載せらる、実に趣味津々として巻を掩(おおう)ふことを忘れしむ。余元来史跡名勝とか、人物傳記とか云ふ方面の研究には、いささか興味を有し、好んで是等の書籍を読む。故に貴誌の郷土先人録、紀行、慣例、郷土通信など、繰返して之を見る、時に偶々先人拳骨和尚の出雲行を想起し、怱(忙しい)惶(慌てる)この記事を作る。
 余が家和尚の傳統を継ぎ、余に迄んで四世、綿々として俗家の祭祀を行ひ来る。和尚本姓は武田、名は物外、字は不遷、泥佛庵と号し、別に種徳軒、観潮楼主、無用道人、南海道者、不遷子等の別号がある、生得不可測の怪力を有し、弓馬、剣槍、拳法、柔術の達人として知られた、世人呼んで拳骨和尚と云ふ、京阪にては一名を今弁慶の和尚と云ひ、又富士和尚とも云ふ、蓋し富岳の山容自ら崇高なるを慕ひ、富士に対する作句頗る多く、故に此の名を称されたであらう。就中(なかんずく)勤王誠意の迸(ほとばし)りとも思はる々彼の「雲の上も君が御國や不二の山」の句は忽(たちま)ち禁裏へ聞え上げて畏くも孝明天皇に咫尺(しせき:拝謁)し、具に天下の大勢を言上なせし事ありて以来、不二和尚の名亦京洛邊に喧傳せられたるものである。物外生國は伊豫松山、松平隠岐守家中にして、実に武田信玄九代目の嫡孫なり、出家して備後尾の道済法禅寺の住僧となる、名徳天下に普く、僧俗士人の来りて教を乞う者常に門下に絶えなかったと云ふ。故に諸侯の帰依する者も多く、長州候を始めとして、肥前大村候、備後浅野候、また姫路酒井候は祈願所を御依嘱になり、二百石を贈られたと云ふ。尚、栗田御殿青蓮院の御祈願所と定められ、宮様の御執成しを以て、勅して紫衣を賜はると云ふ、又、勅諚に依り太極殿の額を書す、和尚の遺墨中往々勅物外の落款あるものは、此の勅賜以後の書筆である。
 古来人を知るは先ず其友によると云へり、和尚の交友には諸侯並に貴顕諸郷の方多く、二条関白諸太夫、正親町三条実愛郷を初めとし、越前の松平春嶽公、丸亀京極侯、廣島浅野侯、三原侯、備前池田茂政侯、姫路酒井侯、松山板倉侯、肥前大村侯、伊豫松山侯、長州侯なぞ晩年國事に就いては同席に胸襟を開き、会談せられたる間柄なりしと云ふ其の幕末維新に際し、老僧座視するに忍びずと、國事のために東西に奔走し、雄藩諸侯の間を斡旋尽力して、勤王の大儀を唱へたる文書事跡等今存するもの多く、実に隠れたる緇流(僧侶)勤王家として、其名鏘々(高い)たるものである。
 今此の和尚が出雲と関係ある話片を掲げ以て当時の人物を偲ばう、文久元年和尚備中松山に遊び、門人建次郎を伴ひ伯耆に行き、汗入郡古御堂村佳雲寺に千年庵大鱗を訪ひ又伯耆の郷士門人左門の家に至る、更に左門を召連れ出雲松江に遊び、城下宗泉寺の隠寮に逗留す、此時伯州より身丈六尺八寸大兵の武者尋ね来りて、拙者大力にして今日までその力を合する敵手なし、貴僧は尾道の大力今弁慶なりと聞く、相違なくば拙者と力を較されよと云ふ。依て土俵を構へ日を定めて角力をなしたるに、和尚の為め一度は足下に踏み付けられ、一度は高く宙に差上げて投げられ彼ははう々の体にて逃げ去りたるが、其翌夜和尚の宿坊に忍び入り、遺恨を晴らさんとせしを看破せられ、和尚の為めに懇々説伏されて辞し去った。此の事を見聞きしたる城下の人々は日々宗泉寺に和尚を参聞し、武道佛道併せて問答往復盛に行はれた、中にも藩中血気の者共は多衆の雑談を厭ひ別席にて和尚に禅問を乞ふ事を申入れた、和尚も之を諾し翌日刻限を約して一同参集する事になった。和尚は当日席を設けて曲録に凭り(もたれ)、侍者をして両脇に侍立せしめ、雲水の僧も十数人左右に居並び、禅門の少参を始められた、先づ和尚は釣語の第一矢を放って曰く、「此の大衆中若し身命を惜まずして参禅学道せんとする鐵漢あらば、試みに心の実剣を持し来れ、汝等と相見せん」と仰せられた。藩士等は何れも狼狽凝議して一言の答を為す者もない、此の時和尚は椅子を下り、「汝等平常言端語端を逞(たくまし)うす、這(この)裏に至りて唖の如く聾の如くなるは如何々々」と片端より如意法打して蹴踏せられた。藩士一同は只難有々々と云うて合掌なし、初めて和尚の慈悲老婆徹悃(まこと)なるを悟り、心中の我慢も折れ、心地快活なることを得た。此に依り一同と供に休養寮に入り茶を煎じて親しく提撕(教え導く)せられて申さる々やう「諸子禅宗とて別に奇特の法があるのでも無し、雨竹風声も亦是れ皆禅を説き居るのである」と、何れもこの一語に感服して和尚の居士身となった。和尚は武芸の神妙なると共に禅機の深奥に達して居らる々ので、言はば鬼に金棒といふ形、武士等も喜んで武禅両道を窺ふの門人となった。
 其の次第で出雲の地至る処に知音多く、特に松江藩母里藩には多数の門人あって、来往数々なりしと云ふ、其中に於ても国造千家氏を首(はじ)めとし、木幡久右衛門、藤間天清、母里城下博多屋利三郎などは取り分けて懇意の人であった。
 今日余が所持する手翰(てがみ)の二三を記して諸君の一粲に供せんとす、若し文中の諸氏の児孫、又はその関係者にして和尚の事跡に関する逸話等を傳へ、其の遺墨等を所蔵せらる々方もあれば、神戸市三河口町田邊又右衛門、或は備中矢掛の中山英三郎宛に御示教を賜はらば幸甚である。
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(木幡氏書翰)

 短簡奉呈候。昔日は御柱駕、連日得拜謁且希代の御名器数々拝見を許され、中々窺知る事にあらざれ共、僕の好奇癖本望不可過之多々奉拜謝候、御淹留(久しく留まる)中は不風情粗忽の御給仕のみ申上げ難醫赤面に奉存候、遂日寒天の候に相成処、尊師様益々御安體可彼為在御起居候哉、漢竹の茶器漢銅の火入も無難に御給仕申上げ居被哉御跡を慕ひ御旅館へ相伺度候得共、歳晩の塵事、如何共不任心底失禮仕候、松山嘉正方漢印、太田竹硯、など一日も座右を欠さず心の塵を掃ひ呉れ候間、尊慮易く思召可被下候、彼等も尊師の御高徳に依りて、日々光を増し、後代尚更重実可仕、一生の賜に御塵候、猶心事後段可奉伺候、雪天の御旅駕随分御自愛奉祈上候。
敬白             十一月念七
                            宍道澤   木幡久右衛門

  済法物外方丈様

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 拜陳仕候久々御無音に打過ぎ候処、厳寒の砌りに御座候得共、方丈様益々御壮栄に被遊御起居、喜悦不過之奉存候、随而野生無異罷在候間、乍恐(おそれながら)御放慮可被下候、寔(まこと)に些少の至り如何敷奉存候得共、出雲名産十六島海苔貳百目、乍聊(いささかながら)奉献上候、御笑味も被成下候得者、奉本懐存候、手前愚父よりも書翰差出可申筈に候共、此中取込の事故、失敬申上候、別而来る十三日婚姻致候に就ては誠に以て大乱書、平に御仁免被成下候、先は御左右御伺傍々(かたがた)幸便に依りて除斯御座候。拝首
                           十二月三日

  二白近来は取紛れ中にて、大不風雅御免可被遊候。再拜

                                  藤 間 天 津
     物外和尚様

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 前略尊師様倍々御安體御起居被為在候哉、鯰友雅伯も息災に御伽申上候哉、さて々希代の古色、天下の絶品にて魂なきにあらざるか、此間夢中に遂面會睡後一笑仕候、僕の瓢癖御憐察被下べく、三四年間厳島詣での宿願御座候間、御高館へ相伺申度、其節は鯰友大人へも再會可致と、従今楽しみ罷在候、任有の阿蘭陀(オランダ)砂糖一器、並薩州産煙草壱筺時候御見舞までに奉入高覧候以上。

十二月七日          宍道澤

                                 木幡久右衛門

  物外大和尚様

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 尚序でに千家国造よりの贈物を記して置かう、嘉永四年及文久元年和尚雲州漫遊の記録に依ると、両度共千家公を訪はれた、尤もこれ迄に相知の間柄であって、互に相親み出入往来もありし事は云ふまでもない、其の和尚と国造との最初の対面のことを余の父から聞かされて居るが、一寸面白い、それは門人某の取次ぎで千家公は名高い物外和尚の怪力を見ることを所望せられた。和尚は座に有合せた碁盤に目がつき、之れが頂戴出来れば直に力を御目に掛ける事が出来ると申され、其の碁盤を貰ひ受けて、それに拳痕を深く印せられたので、千家公も今更の如く驚嘆された、碁盤は随侍の門人が携帯して持帰つたが、今に済法寺の什実になって居る、此時和尚は「墨染や高天が原で秋の月」と一句を短冊に認めて國造に出された。和尚はまた茶道に達し器物の鑑識眼も相当にあって囲碁も初段であった、故に千家公共能く談じ能く遊ばれた、文久元年出雲行には大分滞留であったらしい、そして和尚の帰國にのぞみては非常に別れを惜しみ、國造から「曙」と名づくる黒赭(しゃ:あかつち)焼の茶碗を贈られ一首の歌を添えられた。

       物外和尚に曙と名けたる茶碗をつかはすとて、
               御杖代兼国造 尊 孫
  としのたつ曙毎に此人はこの器もて木芽のみつ々齢のぶべし

 とある、此文書やら、前の拳骨の碁盤などは今に和尚住山の地なりし備後尾の道済法寺に保存せられてある。
 また余が家に傳ふる和尚の写真がある、慶応二年京都に於て撮影したるもの、芸術資料の一品である、此の肖像の頭に着くる僧帽はこれ又千家國造より贈られたものにて其の着衣は則ち勅賜の紫衣である。此の一事を以て見ても和尚人格の如何に非凡であったかが窺はれ、又貴紳の間に於ける親密の交際と併せて、風雅の道に長けて居られたかも知れるのである。
 以上は余が年来『緇流勤王沙門物外全集』を起草せんと企て其の遺墨を東西に探り、逸事を南北に求め数多の登蹟を考覈(しらべる)するに際し、第一番に見出し得たる、余家所傳の文書断片である、願くば粗末なる此の草稿に依り大方島根県人会員諸君其他有志の中より更に和尚に就ての見聞を余せらる々ならば望外の幸である。(大正十四年五月十七日)


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