七 物外和尚の”釣鐘試合”

 物外和尚は、5、6寸(約15センチ)もある厚味の碁盤を、ちょいと親指と人さし指の二本で持ち上げ、残った方の親指と人さし指で、もう一つの碁盤をつまんで、その上に重ね、これを主人の目の前に突き出し「さあ、これを受け取って見なされ」とやった。とこらが以外に、この主人は少しも驚かず「はい、それでは・・・」と、和尚のやったとおり二本の指で、左右交互にその碁盤を受け取った。これにはさずがの和尚も、舌を巻いて驚いた。「わしの真似ができるやつは、世間にはいない」と自負していただけに、グウのネも出なかったという。
 和尚はそれから門人を戒めて「世の中は広いものだ。力自慢はめったにするものではない」と口ぐせのようにこの話をしたという。
 物外和尚が晩年、不遷流二代目を譲った岡山の田辺貞治の家へ立ち寄ったとき「きょうは手みやげを忘れてきたから、なにかおみやげ代わりに・・・」と、家人がお茶碗をのせて差し出した堅木の丸盆を取り上げ、これを大黒柱に押し当て、右の拳を固めて押しつけると、お盆にはっきりと拳骨の形がついた。このお盆は、いまでも田辺家に保存されている。
 あるとき、三原藩の武術師範の小島鉄太夫と中川徳三郎という友人が和尚を済法寺へ訪ねてきて、三人で武術の稽古をしたあと、野天にしつらえた桶風呂に二人が入っているところへ、あいにく大夕立がやってきた。二人が急いで風呂から上がろうとすると、和尚は法衣の袖をまくり上げて「先生がた、風呂から出るにはおよばん、およばん」と、二人が入った風呂桶を「ヨイショ」と抱き上げて、お寺の屋根の下へ運んだという。この話は当の中川徳三郎(明治13年4月21日死去、75歳)が、生前、自分の門弟たちによく語って聞かせた話である。
 拳骨和尚が有名になるほど、いろいろな名ある武芸者が訪れて試合を申し込むものが続出、また和尚の教えを乞う者もふえた。
 あるとき、一人の武芸者がやってきて、和尚に試合を申し込んだ。あいにく済法寺では法要があったので、和尚は「残念ながら、きょうはこれから法事をすまさねばならぬので、試合は他日にお願いしたい」と断わると、その武芸者は「さては和尚、拙者に気遅れされたか、笑止千万」と高言を吐くので、和尚は「そのようにいわれて試合をしないわけにはいくまい。さて法事の方はしばらく待ってもらおう。それでは、さっそく庭でお立ち会いいたそう」と庭へ下りたって、互いに木剣をもって向い合った。
 相手の武芸者も熟練の士、さすがに一分のスキをみせない。にらみ合うこと数分。ついにいら立った相手は、激しい気合いとともに「微塵(みじん)になれっ」とばかりに打ち込んできた。
 和尚は「心得たり」と、右、左と体をかわしていたが、エイッと気合い一声、鐘楼へ飛び上がると、大きな釣鐘を片手で降ろし、跡を追ってきた武芸者目がけて「それっ」と投げると、狙いは誤またず、武芸者はすっぽりと鐘の中に入れられてしまった。
 鐘の中からは、しきりに「参った」をいっているらしいが、外では聞こえない。和尚は、頃合いをはかって「ヨイショッ」とかけ声もろとも、釣鐘を持ち上げ、元の鐘楼へ戻した。
 この怪力にはさすがの武芸者も一言もなく、平身低頭して、こそこそと立ち去った。これを拳骨和尚の”釣鐘試合”という。
 次は近藤勇を負かした話−京都壬生(みぶ)の新撰組の屯所において、道場をのぞきこんでいた乞食坊主を物外とは知らず、なぐさみものにせんと、道場へ引きずり込んだ隊士が「道場をのぞくくらいなら、坊主も少しくらいは撃剣が出来るのだろう」と立ち会いを強要した。
 新撰組の隊士に立ち会いを強要された和尚は「それでは仕方がない」と鉄如意(てつにょい)を木剣代わりに立ち会った。入れ代わり、立ち代わりかかった隊士たちは、二合におよばず、如意棒を食らって敗退した。
 和尚は「やれ、やれ、年寄りに花をもたせてもらって恐縮恐縮。それではこれにてご免」と帰ろうとすると、それまで上席で腕をこまねいて、じっと和尚の試合ぶりを見ていた武士が「あいや待たれい、和尚。お見事な腕前でござる。拙者は隊長近藤勇。いざ拙者がお相手をつかまつる」と降りてきた。近藤は二間余(約3.6メートル)の真槍を持って立ち合ったが、和尚は如意棒に代えて、頭陀袋(ずだぶくろ)から二つの木のお椀を取り出して相対し、近藤があせって突っ掛けると、槍の穂先を二つのお椀でピタリと押えられ、身動きが出来ず、頃合いを見はからって和尚が突き放すと、近藤は尻もちをついてしまった。多摩の郷士”天然理心流”の家元、近藤勇も拳骨和尚には、まるで歯が立たず、子供扱いにされてしまったという有名な話である。拳骨和尚の逸話はまだまだあるが、余談になるのでこのあたりでとどめておこう。

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