語りつぐ松江物語

「語りつぐ松江物語(立脇祐十著、島根印刷(株)、昭和62年11月28日発行)に物外和尚の記述がありました。
宗泉寺・僧物外・池田ノブ

 宗泉寺は、松江北寺町の旧松江郵便局裏の交差点ぎわにある。幕末の傑僧武田物外のゆかりで知られ、またラフカディオ・ハーンが赴任後数ヶ月をすごした旅館富田屋の菩提寺で、境内の墓地には、太平・ツネ夫婦と女中池田ノブが眠っている。
 武田物外は、寛政6年(1794)伊予松山、松平隠岐守の家臣三木平太夫の子として生まれた。武田信玄の血が流れ、その九代目になるというので、武田姓を名乗った。
 7歳で出家し、16歳の時、大阪に出て昼は托鉢、夜は内外の経典学習と座禅につとめた。文化4年(1807)諸国修行の途中、宇治、興聖寺の住職磨甎(ません)に会い、共に同寺に赴いた。
 3年にわたる苦業で悟りを開き、同11年、江戸駒込の吉祥寺に入ったあと、備後尾道の済法寺の住職になった。尾道では高徳の僧を迎えて、藩主はじめ多くの武家、町人が帰依した。
 僧ではあったが、柔、槍、剣、馬術、鎖鎌、拳法にすぐれ、柔術は不遷流の開祖となった。拳骨和尚の名は、書を求められると、好んで木版をへこまして落款代わりとしたことによったものである。
 また俳句ではよく富士山を詠み、その句「雲の上も君が御国や不二の山」は、孝明天皇のお耳に入り、宮中に召され、のち勅諚で紫衣を許された。
 寛永4年(1852)と文久元年(1861)の二回、出雲を訪れている。二回目の時は伯耆の郷士左門を伴い、宗泉寺に友人の第十二世笑巌和尚を尋ねて、約2ヶ月滞在した。
 滞在中は出雲国内外から武芸者や説法を聞く人たちが訪れた。力比べを申し入れた身長2メートル余の伯耆の武士を双手で差し上げたり、参禅の松江藩士を禅問答ののち打ちすえたり、多くの逸話を残した。
 寺へお礼に贈ったのが「善通物」と書いた扁額と、自筆の達磨画像であった。扁額は例によって拳骨を用いて落款代わりとした。
 二度にわたる出雲訪問で親交があったのは、簸川郡大社町の出雲国造千家尊孫、藤間寛左衛門、八束郡宍道町の木幡久右衛門、能義郡伯太町母里の博多屋利三郎であった。藤間家には「一守」と書いた拳骨落款の扁額、色紙などが伝えられている。

             (以下、池田ノブの記事により省略)


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