拳骨和尚の廻国
近代の大力僧として有名な物外和尚は、伊豫松山藩士の子であった。松山の龍泰寺で剃
髪し、廣島に行き勝福寺、国泰寺で修行を積み、それより一笠一簑の雲水になって諸国を行
脚した。容貌魁偉、身長六尺、米は十六俵を担いで高下駄を穿いて平気で歩いた、常に二本
の鉄棒を携へて居た。長い方は六尺、重さ七十五斤、短い方は四尺重さ五十斤の重量ある
ものであった。また、鉄丸の大きさ鞠の如きものに長さ一丈の鉄の鎖をつけて携へて居た。
或時江戸芝山内を歩いて居ると、酔払ひの武士が暴行狼藉し山内大騒ぎの所へ出逢した。
和尚はつかつかと進んで之をなだめた、武士は之を聞入れず、刀を抜き斬りかかった。勃然
として怒った和尚は、路傍にある三尺角の石を持上げ、空へヒョイとあげ、手玉に取ってみせ
「命が惜しくないか」と呼ばはった。武士等は驚いてこそこそと逃出した。
或時琵琶湖を渡し舟で渡るとき、舟中に一人の雲水僧が居た、雲水は和尚を知っていると
見え、力自慢の話を初め、船中の興に指弾きをやって見やうと云ひ出した。和尚も好む所、さ
らばやらうと、和尚は力をこめて雲水の手掌を弾いた。雲水は一向痛くも感ぜぬ模様である
ばかりで無く、雲水の手掌は石の如き堅い、さすがの和尚もこいつは怪しいと思って出した自
分の手掌を急に引込めた。雲水は勢ひ余って舷を指弾したが、舷に破損を生じた。と見るうち
に雲水の姿は見えなくなった。船中の人々は「多分天狗が和尚を試みたのであらう」と舌を巻
いた。かくして拳骨和尚の名は海内に藉甚となった。
嘉永三年松江に来り、寺町宗泉寺の住職笑巌和尚の客となり、藩の剣客連とも交際した。
藩士石原左伝次の弟子に小倉六蔵と云ふものがあった、和尚と相撲を取り、柔道を以て和尚
を茶畑へ投げ、さすがの和尚も驚いたと云ふ。松江に留まる事六十日、備後に行き、後京都
に寓し尊攘の志を持し、各藩の志士と往来し、七十四才で死んだ。宗泉寺には和尚の筆蹟を
所蔵して居るが、その最も奇抜なものは、同寺の欄間にある「善通物」の三大字の額で、落款
の下に記念の拳骨を推したあとが凹んで居ることである。 |