* 物外 不遷(もつがい ふせん)
寛政6年(1794)〜慶応3年(1867)
拳骨和尚と呼ばれた、江戸時代後期の曹洞宗の僧、物外は、伊予国松山藩の下級武士三
木平太夫の子として生まれましたが、6才のときに剃髪し、仏門に入ります。越前の永平寺で
の修行をはじめ、全国の各寺院を転々として修行をし、尾道の済法寺の住職となりました。物
外は住職として、寺院を整備するかたわら、不遷流武道の教授を勤める武道家でもありまし
た。怪力の和尚として知られ、拳法、柔術、剣術、鎖鎌、槍術にも勝れていました。そのうえ、
俳句、書画にもたくみで、各地に逸話を残した有名な人物です。勤皇の志士たちとも交遊が
あり、国事に奔走しましたが、74才で大阪の旅宿でなくなっています。物外とは、あらゆる世俗
の物事から超越した絶対の境界という意味があります。
物外の逸話に、人が書画を頼むと、かならず、木版に刻んで、その後、拳骨で、痕を作っ
て、落款に代えたなどの話が残っています。
この物外が、文久元年(1861)の冬、木幡梅屋[八雲本陣のこと:HP管理者補足]をたずね、
山荘独楽窩を訪れています。一時期、杵築大社[出雲大社のこと:HP管理者補足]に住したこ
とがあると伝えられていますから、その際、山荘へ来たと思われます。物外の俳句が残されて
います。
『文久元酉の半冬、独楽窩に登りし時、木幡梅屋居士のもてなし厚く、庭前の風景一谷の瀧
池、四季草木なかなか言の葉に尽くしかたし
六十七才 物外道者 備後済法寺住
花守と人はいふらん庵ひとり
世を背に独り楽しむ蓮の花
瀧の音とめてなきけりほとときす
口きりや琴をしらへる峰の松
瓢箪は鬼ころしなり有米の花』 |