伯太町誌等に登場する物外和尚

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平成4年4月 伯太町教育委員会発行 伯太町郷土史研究会編集の「伯太の
伝承物語」に登場する物外和尚を紹介します。
物外和尚と庚申堂

○あれは伊豫こちらは備後の春の風      物 外

 これは物外和尚の句碑に刻まれたもので、尾道公園に特設された文字の小路にたてられ
たものときく。この物外和尚は、広島国泰寺の和尚として山陰を遊歴して母里にも来遊したと
いう。この物外和尚については、現在のところあまりくわしくわかっていないが、伊豫の国(現
在の愛媛県)の生まれで、最後は尾道の済法寺(曹洞宗)において七十三才で没したといわ
れる。
 終生禅業の中に、武芸、兵学、文学、俳諧に傑出、勤王思想の強い人だったと記述されて
いる。
 生涯広く中国地方を巡錫(じゅんしゃく)し、其の都度各地に遺品と足跡をとどめているの
で、それ等を通じてその風貌を想像することが出来る。
 母里には安政元年(一八五四)秋来巡、二年春井尻一乗寺を最後に京に上ったと伝えら
れ、約半年間滞留したことになり、その間母里の庚申堂を根城にして、藩士宅を訪れては兵
法を論じ武芸をくらべ、書、俳偕をなしたといい、これに接した藩士達はその博識に感服した
と申し、また力自慢でもあり若者五・六人を相手にして、綱引きをしても楽勝したというから十
人力はあったと云う。特技として鉄拳自慢で碁盤などげんこつすると盤がへこむ程であったと
申し、杉板など並列して黒書して物外と記号下に、鉄拳でへこみをつけたとの事で、俗にげん
こつ和尚と呼ばれる。遺品としては西村家、宮廻家、永昌寺に額、軸があり、このげんこつ和
尚の足跡で今わかっているが、嘉永二年(一八四九)米子、嘉永三年松江、浜田を経て安政
初年母里に来ている。勤皇思想家である物外和尚が当時勤皇佐幕と世論騒然とした中に、
徳川親藩である松平支藩に来て半年の間何を施し、何を学び悟って行きたことか、今日の我
等には興味深いものがある。
 庚申堂(現母里本町往昔円福寺境内)物外和尚が母里滞在の根城にしたと云う庚申堂
は、以前は間明山円福寺の境内にあったといわれ、いつの年か悪疫流行の折本町に堂をま
つり勘請したと伝えられ、時代がはっきりしないので物外和尚来往の頃の処は、この何れに
住まいしたかはっきりしていない。この庚申堂は円福寺管下で以前干支一めぐり六十日ごと
に赤飯ずきの庚申さまに講中の方々が赤飯を炊いて供え読経、祈りをした後近隣の子供達
を接待したり、盆の十八・十九日は、御本尊御開帳を願い供物、読経、盆踊りと手厚いおま
つりをする習わしであったと古老は語る。この堂には、本尊の庚申像より外に、眼光爛々とし
た不動尊外数体が祀ってあり、この不動像は佐古谷円通寺(尼子時代に栄えた寺院)より移
管したもので、大変すぐれた由緒ある仏像が安置されている。

平成13年3月発行 伯太町誌(発行者:伯太町教育委員会、印刷:第一法規出版(株))下巻「第7編、宗教・信仰」より
○本町の庚申堂

 母里本町にあり、本尊は青面(しょうめん)金剛菩薩像、大聖不動明王像(元佐古谷円通寺にあった仏像といわれ、行基菩薩作と伝えている。松の一木造りで高さ52センチメートル、台座7センチメートルの眼光鋭く白木厨子入り)、帝釈天像(庚申像。明治32年7月新調松江寺町中村武一郎刀、塗師母里本町細田寿輔)、古仏二体。
 この堂は円福寺境内にあった堂を悪疫流行のさい現在地に移築したものだと伝えている。かつて広島国泰寺住職物外和尚は勤皇僧で無類の豪傑和尚。安政元年(一八五四)松江から来母、翌二年井尻一乗寺にいて、その後京都に上ったという。母里にいたとき、この庚申堂を本拠とし、ときに豪農、豪商の家を宿とした。

「広報はくた(平成13年1月号)」町内散歩No.259 に物外和尚の記事が掲載されておりましたので、転用させていただきます。なお、この転用は伯太町の許可を得てあります。
母里藩に見られる技術・教育点描
                        …郷土母里誌中来訪の名士・雅人・美術家から…

 今回は藩政末期に母里を訪れた方々の遺話を主にしてご紹介して見ます。尤も以前ご紹介したことと若干重複する部分もありますが、ご海容下さい。
 藩政末期になりますと外国船渡来通商交易を求めて参ります一方で、いろいろな海外の文化が怒涛のように押よせて多くの人々に影響を与えるようになりました。
 こうした世相の中で、幕府は次のような指達お觸書を出しております。 近年西洋学盛相成、世人新奇を好み候処より僻学好事の輩深く其学不研究のものまで蘭書を取扱い臆断杜撰の翻訳を致し、奇説怪論を唱え俗人を驚かせ候族もこれある由、相聞え畢境近来蘭書和解等のことも、恣に相成候に付、右様のことこれ有は如何の事に候や。元来蘭書については翻訳して流布すべきで、若しその説のみ信ずる心得違の者、これ有候はば後々如何なる弊害生じ間敷ものとも申し難く、また医薬とても同様のことに候、だによって從来より所持の蘭書残らず書名を長崎奉行所へ書き出させ、奉行所のゆるしを請候分は、世上へ流布致候ても苦しからざる様申し渡し候。
 向後右書上に洩候蘭書を取扱候か、又は私に翻訳いたし候者あるにおいては、其書は取上げ当人は急度吟味に及ぶべく候、右に付ては万石以上の面々、海岸主備等の心得のため蘭書翻訳致させ候向も之有候はば、右書名相認め一応老中に届置、翻訳できし上は一部を天文方役所へ差出さるべく候、右の趣相觸らるべく候
〔母里藩御用留嘉永三年(1850〜151前)より〕
 このお觸書で見ますと近来西洋学問を好むものが多くなり、十分研究もせぬまま、いい加減の翻訳をし、思いがけぬ俗説を称えて人々を驚かせる者もあると聞いておる。これはつまる処蘭書等は正しく翻訳した上多くの人々に広めるべきであるのに、蘭書の翻訳和解など勝手にさせたことによるものであるから、以後前々から所持しておる蘭書は全部其書名を長崎奉行所へ届けさせ、その許可を得た和訳本は一般に流布してもよろしいものとする。之に反するものは吟味刑罰に処するものである。としています。尤も蘭学そのものはこれより約20年以前寛政8年(1796〜205前)には蘭和辞書が、はじめて出来たことになっていますし文化12年(1815〜186前)には杉田玄白の蘭学事始がありますから日本国内にも蘭学は広くひろまっていたことになります。また前述お觸書最後の方にあります…右に付ては万石以上の面々海岸主備等の心得のため蘭書翻訳致させ候向も有こと故、書名認めて老中に届置、翻訳ができた後一部を天文方へ差出すこと…と指令しています。この前段も後段も今日的に申します情報規正になりますでしょうか。
 さて小国母里藩の場合、海外の文化や他藩の動向新しい学問などの交流は、どうした姿で行われたことでしょうか。
 藩学や寺子屋、塾などの指導者達はその役割の一端を荷いましたが、人の往来交流も世情を伝え教導する役割を持っていました。廣島国泰寺和尚物外の来訪もその一例になりましょう。
 郷土母里誌によりますと「物外和尚は山陰を遊歴し嘉永2年(1849)米子に、翌3年より松江藩に遊び、浜田に行き、安政元年(1854)秋母里に来藩、安政2年春井尻一乗寺に錫を止め同年京都に上った、」とあります。其後何年諸国歴遊されたことか、広島に帰国してから
  安芸と聞かば
   憂からんものの
    五月雨や
   ただ広島に 独り寝の床
の一句を手紙に添えて柴田家へ届けております。
 …物外和尚遺話など次号にゆずります…

参考書 郷土母里
     島根県歴史大年表
     百科辞典 

「広報はくた(平成13年2月号)」町内散歩No.260 に物外和尚の記事が掲載されておりましたので、転用させていただきます。なお、この転用は伯太町の許可を得てあります。
母里藩に見られる技術・教育点描

 前号に続いて、物外和尚遺話を述べることにします。この和尚来訪について郷土母里誌に、「豪傑和尚の名を轟かせた広島国泰寺の和尚で山陰を遊歴し、嘉永2年〔1849〜153前〕米子に来り、3年より松江に遊び、浜田に行き、安政元年〔1854〜148前〕秋母里藩に来た。」…略「母里本町庚申堂に宿って居て藩士中兵法に心ある者を訪問して討論するに藩士其博学に驚嘆し、夫より転々藩士宅に宿って兵法を論じ、武芸を較べ、書、俳諧を爲し、…身長凡そ六尺肥満して柔和な容貌であった。家中奉公人を相手に綱引をするに5、6人を相手にして常に勝、7、8人を相手にして僅かに負ける程の力量であった。…物外和尚の得意とする処は強毫なる手拳で、碁盤上に鉄拳を下せば、僅かに凹痕をつけたという。十人力との噂であった。…安政2年春〔1855〕井尻一乗寺に錫を止め、同年京都に上った。」となっています。

  現在のところ、これ以上母里藩内での物外和尚の行動を知ることは困難ですが前号記柴田家へ広島から寄せられた礼状中には、永昌寺老僧や、其の他何軒かの家に、よろしく伝声、するよう依頼されていますから、可なり多くの方々とつながりが、できたものと考えられます。特に勤王僧として知られた方でしたから、藩政末徳川親藩の母里藩に、半歳以上滞留して、何を見、家中の方々に何を伝えたものですやら、こうした外来者から受けた勤王思想は、領民に時世を教え大政奉還への地均し的役を果したことになったのかも知れません。
  このように維新動乱期の西国を、歴遊した物外和尚も 「あれは伊予、こちらは備後、春の風」の句を残して、尾道済法寺で没しています。行年73才であったと申しますが、没年月日が不明のこともあって、母里来訪時の年令等明らかでありません。
  処で物外和尚が母里藩で駐錫した最初の場所、庚申堂のことですが、此の度町より各戸に配送された伯太町誌下巻622頁に詳細記述があります。その中から物外和尚に関係ありそうなことを抽出記してみましょう。
  この堂は円福寺境内にあった堂を悪疫流行の際現在地に移築したものだと伝えている。と書かれています。同書には現存する棟札7枚が記されていますが鉄拳和尚物外来錫の頃の庚申堂は、明治34年2月に現在のお堂が再建されていますから、和尚物外が宿泊したのは建替前の堂宇であった筈で、多分文政13年(1830)頃に建立された堂宇であったかと思われます。勿論堂の大きさなどはわかりませんが、文化、文政頃には領内でも各所で寺社建立が、行われています。円福寺本堂も庚申堂より2年早く、6年の歳月をかけて建立されています。亦棟札を見ますと願主、発起人世話人とも母里藩有力者の名が連ねてありますし、大工さんも棟梁外2人の名が記されている事などから見て小さくても、しっかりした堂宇で庫裏もあったのかも知れません。今の堂宇の前庭に松、高野マキ老木がありますが、その下手の側に、日蓮宗題目を刻んだ石碑があります。正面高さ93cm巾46cm背面底部31cmと42cmの二面を持った、ほぼ三角錐形の自然石を巧に利用した竿石が二重の台座の上に捉えてあります。正面平滑面には「お題目」だけ彫り込んでありますが裏面に「明和八卯天十月日」「松仙院日芳営之」としてあります。明和8年(1771〜231前)と申しますと、円福寺開創以後30年ばかり経過した頃のことになります。領内の何処かにあった石造塔を本庭に移したものかと推量されます。然し今の処、こうした堂宇や堂守も所在は判明していません。
  
参考書 郷土母里
      伯太町誌下巻
      島根県歴史年表
      仏教辞典
写 真 母里町庚申堂


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