プロレスの技には不遷流が!



プロレスの技は不遷流柔術の技が基本になっているのではないか。それを裏
付ける資料がありました。下記の資料をご覧ください。なお、この資料の転用は
著作者の承諾を得てあります。

=== PUROSHITAN =============================================================
           プ ロ シ タ ン 通 信第60号
           2000/02/22号 発行部数606部
=============================================================================
(前略)

・アメリカン・プロレス対柔術、柔道 (1) トラキチ・マツダ

●プロローグ
 93年のグレイシー柔術出現はプロレス界にとって黒船であった。桜庭(高田道場)の99年プ
ロレス大賞殊勲賞獲得も黒船襲来がなければありえたか?しかしそもそもそのグレイシー柔
術は日本がルーツ。コンデ・コマの前田光世が大正期にブラジルで種蒔いたことは皆さんど存
じのところと思う。
 柔術とは何か、門外漢の私は詳しいことは知らない。武士の格闘術がさまざまな変遷をと
げ、その一派が(嘉納→講道館)柔道になっていったということを知るくらいである。が、混乱を
避けるためここで「柔道」と「柔術」を定義しておく。
 この文で「柔道」とは嘉納治五郎が設立した講道館柔道をさし、「柔術」は江戸期以前の着衣
格闘技のうち、講道館に統合されなかったもの、もしくはされるまでを表す。
この定義はあくまでもこの文中における定義である。何といっても私は門外漢なのだから。
 現在「柔術」はブラジルから日本に襲来するもの、しかし戦前のアメリカにおける柔術
(jiujitsu)は東洋から来たミステリーだったようだ。フジヤマ、ゲイシャ、ハラキリ、ニンジャ、そし
てジュウジツだったのである。
 柔術は戦前のアメリカンプロレスに大きな遺伝子を残した。それは観客には見えない「シ
ュートな世界」にも取り入れられた。以後、この文では柔術が戦前アメリカンプロレスに投げか
けた影響について述べていきたい。

 安政の開国以来、大志を抱いた日本人の何人かがアメリカへ、そして世界へ渡った。
トンパチな相撲崩れはまわしとさがりでリングに上がり「ジャップ」を演ずる。1880年代大相撲
序二段を脱走した荒竹はニューヨークにおいて相撲・プロレス混合ルールで強豪エドゥイン・ビ
ッピーを破り、その勢いで世界グレコローマンチャンピオンのウイリアム・マルドゥーンとの対戦
にこぎつけた。「ソラキチ・マツダ」の誕生である。
 荒竹とともに大相撲を脱走した浜田は1887年、レスラー、ボクサーを伴い帰国。日本初のプ
ロレス、ボクシングの興行を行う。日本ボクシング史では浜田を日本初のボクサーとしている
ようだ。
 また、柔(やわら)の世界でも自らの流派を世界に広げんと、アメリカへ、ヨーロッパへ飛び立
ったものが少なくなかった。その中にはイギリスからアメリカ、メキシコ、そしてブラジルへと嘉
納柔道布教の旅に出ていた前田光世や、主にアメリカで活躍し、世界ライトヘビー級チャンピ
オンのアド・サンテルと闘った伊藤徳五郎、太田節三がいる。
 イギリスでジョージ・ハッケンシュミットに挑戦状を叩きつけたことで有名な前田。
ハッケンシュミットも前田の試合を観戦しており、その実力は認めていたものの、不幸にもこの
対戦は実現しなかった。そしてその後ブラジルでグレイシー一家に柔術を伝授したことで名を
残す。グレイシー柔術は現在講道館柔道と大きく離れたものになってしまった。「普及」の目的
上やむを得なかったのかもしれないが、後者がスポーツ化していく中で削り取っていった「当て
身」を前者は残した。それは「武器を持たぬ格闘術」として当然といえば当然である。
 また、伊藤、太田もアメリカでは格闘家日本人の代名詞となった。時代は下って1960年代、
海外武者修業にでた日本プロレスのセメントコンビ上田裕司(馬之助)は「ミスター・イトー」を、
松岡政雄(巌鉄)は「ミスター・オータ」を名乗ったくらい伊藤、太田は有名だったのである。
 さて、戦前のアメリカマットで「日本」の代名詞だった「柔術」。1920年代、有名な日本人レ
スラーが二人いた。一人は国境の町エル・パソに居を構えたマティ・マツダ、元世界ウェルター
級チャンピオンである。もっとも本人が日本の家族のもとに送った手紙によると「ジュニア・ウェ
ルター」とのことであるが記録ではウェルターである。残念ながらマティ・マツダの経歴について
は未調査な部分も多く、柔術との関係は今のところ見えない。
 そしてもう一人が自ら修めた柔術で世界を渡りあるいた三宅多留次(タロー・三宅)だ。
かつて70年代WWWFで活躍したフィリピン系ニセ日系人プロフェッサー・タロー・タナカのタロー
(TORU、トールというべきかもしれない)は三宅から取ったものだ。
 1881年(明治14年)岡山県に生まれた三宅は、17歳で不遷流柔術に入門。講道
館の全盛期にそこを敬遠して柔術の修行を積み、1903年(明治36年)の「全国武術選手
権大会」では講道館代表をも倒し優勝を飾っている。そして神戸警察署の柔道師範に就任
するが、酒に酔って港湾労働者と大立ち回りを演じ、職を辞する。三宅は海外雄飛を決意、
1904年(明治37年)2月ヨーロッパへ渡る。そしてプロレスに興味を抱き、アメリカへ渡った。柔
道半分、プロレス半分の試合をやりながら、1928年(昭和3年)10月、日本へ帰国した。このと
きプロレス興行を行ったが失敗している。その三年後、ハワイで弟子入り志願者に出会う。そ
の名は識名盛男、沖縄からのハワイ移民で後の沖識名である。三宅は沖に不遷流柔
柔道、さらにプロレスの技を伝授した。
 戦後、この沖は力道山を育て、日本プロレスでレフェリーになった。さらに馬場、猪木
のコーチもした。いってみればBI砲は三宅の孫弟子なのである。
 こうしてポピュラーな存在になっていった柔術を、アメリカ人の中にも取り入れる者がでてき
た。1925年、エド"ストラングラー"ルイスを破って世界王者になったフットボール上がりのウェイ
ン・マンである。彼は「柔術修得」というギミックを使っていた。
しかしおそらくアメリカで最初に柔術を取り入れたのはウェイン・マンではない。ジョージ・ボスナ
ーという男だ。
=============================================================================

(後略)


トップへ
トップへ
戻る
戻る