3.11東日本大震災の現場を行く 2011.7.19-7.22 |
|
伊達市のある農家の庭先、地上1メートルの放射能値 |
|
名取市閖上では | |
お話を聞かせてくださった被災者の方 閖上7丁目のご自宅が読売新聞写真集の表紙に写っています |
|
黄色い屋根の向こうに仮設住宅 土地に恵まれた名取では、仮設住宅の供給100% 右は冠水して黄色になった田んぼ左手奥に瓦礫置き場が見える |
|
瓦礫置き場、写真で見えるのはは1/5程度 こんな置き場があちこちに |
|
津波で運ばれた泥や砂が積もった田んぼ 果たして、農業の再生はあるのか? |
|
田んぼには、たくさんの人の生活や思い出が埋まっています | |
最初に目に入った打ち上げられた船 海岸から1キロくらいのところ |
|
田んぼの中の1軒屋、右側には船が でも、こんな形で残っても(>< |
|
ここの田んぼの中はあらかた片付けられていましたが、さすがに大物は、、、 |
|
ドアの鉄板が剥がされた車 |
|
奥の家もほとんど使えない |
|
よくも、土台から上を引っぺがせるものです |
多くの人が避難した閖上中学校 1Fは胸の高さまで浸かっていました |
2Fの廊下からは黒い龍が地を這ってくる様が見え、みんな息を呑んで声が出なかったと 教室の窓からは校庭に転がる3隻の漁船 |
|
14日の卒業式を控えていたのに |
2:46で止まった電気時計 |
漁協の建物だったと思われますが、港に唯一つ残って おそらく、2F部分は流されているだろうと |
|
瓦礫が撤去され、びっしり家がひしめき合っていた筈のところが一面の野原に |
|
読売新聞表紙の左隅を飾った老人ホームうらやす 右側の重機あたりがマロン色の瓦を持ったお宅(2番目の写真矢印箇所) |
|
仙台空港の手作り出発便、到着便案内。案内もハンドスピーカー トイレも仮設、喫茶や食堂も未再開、1/10以下の施設で運行中 |
|
塩釜市から仙台市若林区荒浜地区 | |
多賀城市の港に打ち上げられた千トン級の貨物船 |
|
炎上したガスタンク群 |
|
田んぼの中は全く手付かずのまま |
|
砂で埋まったところや抉れた所 |
|
運ばれてきた松ノ木の屍が累々と |
|
スタンドの頑丈な看板の支柱も薙倒されて |
|
総なめにされた若林区荒浜地区 |
|
奥行き100メートル以上だったはずの松林も総なめ |
|
石巻市から死者の割合の一番高い女川 | |
災害ボランティアセンターの設置された石巻専修大学にはボランティアのテント群 |
|
石巻市内の多くも被災 |
|
あとわずか数十センチで難を免れた女川原発の法面(13.8m) |
|
女川原発全景 |
|
唯一原発が全貌できる小屋取集落でも |
|
電柱に絡み付いた浮き、その下にある2階建ての家、右側には打ち上げられたプレジャーボート 津波の高さが想像できます |
|
消防機庫の前でホースに絡まった消防車 |
|
集落が壊滅した塚浜地区。道路だけが通れるようにあけられています 牡鹿半島の海沿い集落はほぼ壊滅状態 |
|
港湾施設は沈下の影響もあって使用不能 生業の柱だった養殖の復活はあるのでしょうか? |
|
押し流されて海の中に立つ鉄骨建物 |
|
地震と津波でずたずたになっていた女川原発への道路 |
|
タンクの片づけが進んでいました(女川の町) |
|
地盤沈下で海水の溜まる港湾施設 |
|
杭も引き抜いてひっくり返った3階建ての建物 |
|
まるで廃墟となったサラエボの町のよう 道路は、地盤沈下のために地上げされています |
|
男性トイレの便器は残っていましたが、女性トイレにはナシ |
|
高台の町立病院から谷を望む |
|
高台の町立病院から |
|
左手前は前出の3階建てビル |
|
町立病院に飾られた七夕飾り 高台の病院1階にも津波が〜柱に残る爪あと |
|
使える施設は2階より上 |
谷の中ほどから港のほうを望む 左上に町立病院 |