全国地域人権運動総連合(全国人権連)が発行している機関紙「地域と人権」4月号から7回シリーズで「島根の住民運動エトセトラ」というテーマの連載が始まりました。私は、第一回目の執筆を担当しました。今後、随時掲載します。
島根県地域人権運動連合会(略称=しまね人権連) 事務局長 片寄 直行
第1回 島根の部落解放、地域人権運動
産声あげてから33年
島根県での最初の全解連組織は、1981年に結成された全解連大田支部。前年、大田市長が「差別」発言をしたとして同和会が糾弾をしていた頃、全解連中央は機敏に対処し、大田市において部落問題解決の展望をしめす講演会を開催しました。それに参加した人たちで全解連有志懇談会が組織されたのをきっかけに大田支部が結成されました。
全解連の講演会にはじめて参加して「目からウロコが落ちた」と感銘し、同和会青年部長だった大西修氏(現、しまね人権連議長)が全解連に入会しました。その後、大西氏は1996年の全解連県連結成に重要な役割を果たしました。
県内の全解連4支部(大田、温泉津、川本、松江)が結集して県連を結成してからは、運動を大きく前進させました。結成当初、行政の対応はとてもひややかでした。翌年、松江市で開催された全解連第26回全国大会にメッセージも来賓挨拶も拒否する旨の文書を送りつける態度でした。行政側は、全解連とのかかわりを否定したかったらしいですが、私たちは「同じ運動団体なのに片方は密接に連帯し補助金まで出しているのに、もう一方は存在すら認めないとは、それこそ差別ではないか」と追及したところ、それに反論できなくて、1997年、島根県当局は私たちを正式な交渉団体として認めました。
島根県内自治体への部落解放同盟の介入は、1980年代から数々ありましたが、一大転機となったのは90年代です。1992年、県職員が車の中で「差別」発言をしたとして糾弾された事件で、島根県は「県行政の中にこうした発言を生み出す素地があった、行政責任を改めて認識し、同和対策の中長期的な方向を確立し、総合的にとりくみたい」と完全に屈服してしまいました。そして、1994年、「島根県同和対策推進計画」を策定し、部落解放同盟の要求どおり差別の現実に学ぶことを基本姿勢にしました。島根県教育委員会は1996年、同和教育指導資料第19集「同和教育をすすめるために」を発行し、「同和教育を教育の基底に据える」路線を展開しました。同和教育のスタンスは部落問題に起因する教育上の課題の実践であって、人権教育の一部ではあってもすべての教育の基底にすえるべき性格のものではありません。
多くの自治体が行政機構の名称に「人権施策推進課」などを用いているのに対し、島根県行政は「人権同和対策課」など「同和」の名を残しています。時代の流れとともに「同和対策推進計画」は「人権施策推進計画」に替わっているのに、同和教育指導資料第19集ほか関連文書はそのまま現存しているのです。
人権と民主主義、住民自治が花開く地域社会の創造を!
2004年7月24日に創立したしまね人権連の創立宣言の一節です。全国人権連とともに歩んだ10年の歴史は、私たちの脳裏に鮮明に焼き付いています。
「地域人権憲章」の討議で運動論に確信
人権連が「権利憲章」を設立当初から構想していたのはすばらしいことです。採択に至る過程は、全国的にも産みの苦しみだったことでしょう。
論点もさることながら憲章の名称についても紆余曲折がありました。当初は、「地域社会における権利憲章」でしたが、後に「地域社会と居住者の権利憲章」、「地域社会と住民の権利憲章」と修正提案され、最終的に「地域人権憲章」として2012年11月18日に採択されました。
「権利憲章」の論議を通じて、憲法の人権保障規定のすばらしさ、全国の英知を結集して作り上げる人権連の民主的運営に感銘しました。島根県連もこの憲章論議を通じて理論的に鍛えられた気がします。
島根の歴史と住民運動にスポット
島根といえば出雲大社が有名。神話の里です。昨年は60年ぶりに大遷宮が行われ、観光客がたくさん訪れています。世界遺産となった石見銀山、島根原発が立地するところでもあります。昨年は松江市教育委員会が漫画・はだしのゲンを閲覧制限していた問題が発覚し、10日間におよぶ全国のたたかいで閲覧制限を撤回させることができました。
7回シリーズで島根のさまざまな歴史と住民運動について関係者が紹介し、第10回全国研究集会成功をめざしたいと思います。
しまね人権連創立総会で挨拶する大西修議長(2004年7月24日)