本稿は、『人権と部落問題』5月号に掲載されたものです。
                  島根県地域人権運動連合会 
                     事務局長  片寄 直行

〜島根県における同和行政・教育の終結をめざす取り組み〜


同和事業を終結した島根県

島根県は、同和対策に関する特別措置法による事業に477億円を投入(2001年度まで)。法律失効後の5年間は、県単独事業として実施してきた自動車運転訓練事業や融資制度を行いましたが、2007年度以降は、同和対策事業は終了し一般対策へ移行することを明らかにしました。
長年にわたる同和対策事業を終了できたことは、同和問題解決にとって大きな前進の一歩です。しかし、島根県は、“差別意識は厳然として残っている”との考えを前提に、「同和教育」を教育の基底に据え、肥大・強化する姿勢を強めています。
本稿では、部落解放運動から発展的転換を果たした人権連運動の活動の一端と島根県の「人権・同和」行政および教育の現況について報告します。

「同和対策」の背景と事業終結の意義

島根県において同和行政に異変が生じたのは、「解同」が島根県行政に介入してきた1980年代からです。
その経過と問題の所在については部落問題研究所編の「部落」(1995年11月号)で紹介されていますので、参照していただきたいと思います。
1992年11月に浜田土木事務所職員が友人と交わした部落問題にかかわる発言をとらえて、「解同」が島根県に対して「県職員の差別発言糾弾闘争」をすすめた結果、島根県は、「今後、“未指定地区”の『指定』と同和対策事業の実施へ、市町村と協議・連携して、部落差別がある限り同和行政を積極的に推進する」と表明したのでした。そして、そのことを包括的に盛り込んだ「島根県同和対策推進計画」(2010年までの長期計画)が1994年6月、策定されました。
それまで同和地区指定のなかった旧平田市(合併により現在は出雲市)では、1998年度に同和対策室が設置されるなど逆流も生まれました。2002年3月末に特別措置法が失効しても、島根県では、経過措置としての事業を継続してきたのでした。
2007年度以降の同和対策事業終結は、同和対策としての物的事業ならびに個人給付事業の完全終了を意味します。実態的差別は概ね解消したと県が認めたといってよいでしょう。しかし、今のところ島根県は同和行政を完全に終了したとは言いません。それは、 “部落差別がある限り同和行政を積極的に推進する”との「解同」との約束が関係していると思われます。

同和教育を「基底に据える」路線とのたたかい

教育現場での部落問題に関わる発言とそれに対する「解同」の介入が島根県の同和教育方針にも大きな影響を及ぼしました。
まず、1990年代に起こったいわゆる「差別」発言事件の概要と教育行政の対応について振り返ります。
1992年、益田工業高校3年の英語の授業で、教師が英文の「second‐class citizens(「二流市民」)という箇所を説明しているとき、ある生徒が部落問題にかかわる言葉を周囲のものに聞こえる程度の声でいったというのが発端でした。ただちに「解同」が介入し、以後、「事実確認会」、「確認・糾弾会」、「糾弾」が行われました。
県教委は、94年3月、「学校同和教育の手引き」(同和教育指導資料第10集=1985年県教委発行)を突如回収する措置をとりました。「同和地区児童・生徒の実情を把握」し、その「学力向上と進路保障に努めること」が「同和教育の重要課題であることが明確にされていない」などというのが、回収の理由です。
県内企業による「採用選考差別事象」(1993年)、松江東高校での生徒の発言(1995年)などによる「解同」の介入も相まって、手引きは改定されました。
そして、1996年に同和教育指導資料第19集「同和教育を進めるために」が登場したのです。19集の特徴は、「同和教育をすべての教育活動の基底に据えて取り組む」、「差別をなくす実践力を培う教育内容」、「地域ぐるみで進める推進体制」などの方向付けです。
その後も松江南高校での教師による生徒のランクわけ問題(1997年)がおこりました。これは、教師が生徒を成績で「王様」「貴族」「平民」「奴隷」と呼んでいたものです。
「解同」が介入し、糾弾闘争が激しく行われました。同年、県教委は“糾弾マニュアル”ともいうべき同和教育指導資料第20集「差別事象から学ぶために」を発行しました。
 1999年、邑智郡羽須美村(合併により、現在は邑智郡邑南町)の小学校長が職員会議において「同和地区のやから」と発言したことが、「差別」発言とされました。村は差別事象対応本部を設置し、行政側が「解同」の確認・糾弾の窓口になってお膳立てをしました。
私たちの前身である島根県部落解放運動連合会(島根県解連)はただちに調査活動に入りました。確認会に「解同」が出席することを知った校長は断固出席を拒否。本人不在で確認会が行われたものの、2回目に村長が打ち切りを宣言しました。
後に県教委は報告書を作成しましたが、事実確認が不十分で、恣意的で推測の域をでないものでした。
島根県解連は、県と交渉し、「確認・糾弾」路線が行き詰まっていること、部落問題解決の障害になっていることを指摘し、記者会見をおこなって確認・糾弾の社会的排除を求める県民運動を呼びかけました。
部落問題にかかわる発言への「解同」の介入は、2000年以降も続いています。2000年に松江工業高校、2001年に浜田高校、2003年に三刀屋高校における生徒・学生による発言への介入です。ただ、羽須美村の事件以降は従来型の確認・糾弾ができなくなりました。世論と運動の成果です。ここが90年代と違う点です。「解同」のものの言い方は、最近、「紳士的になった」そうです。名称も「確認会」や「糾弾」ではなく、「運動団体との協議」になっています。

「解同」と癒着する島根県行政

しかし、「解同」が公然と介入して関係者を屈服させ、今後の取り組みを約束させるという基本形は変わらず、むしろマニュアル化された県教委の指導資料にもとづいて、「解同」路線を粛々とすすめる仕掛けになっています。
指導資料にもとづいて進めると、確認・糾弾を自然に処理するシステムができあがってしまっているのです。
たとえば三刀屋高校の場合、事象の起こった7ヶ月後から2ヶ月間に5回の運動団体(「解同」)との協議が行われています。
これらは「解同」の介入を積極的に受け入れ、教育の中立性を教育機関自らが犯す行為といわなければなりません。
 事件について各高校がまとめた文書で共通しているのは、@差別発言を招いた責任は本校にあり、差別の現実に学ぶという視点が欠落していた、A今後は教職員が同和地区に出かけ、差別の現実から深く学ぶ、B同和教育推進体制の確立、中学校との連携、進路の保障、同和教育をすべての教育活動の基底に据えた教育実践などです。ずばり、県教委の同和教育指導資料第19集や第20集の踏襲です。
これら一連の高校での問題が決着してから、県教委は2006年3月、「島根県における同和問題の歴史」を刊行。同時に、同和問題学習の展開例を小学校、中学校、高等学校別に示した同和教育指導資料第22集「島根県における同和問題の歴史」―学校教育活用編―を発行しました。江戸時代から昭和戦後期までの島根での「差別された人々」の状況、部落解放運動、同和行政・教育の変遷について記述しています。県教委は、今後、社会教育編(仮称)の発行に取り掛かるとしています。
22集で滑稽なのは、水平社宣言の引用中、「人の世に熱あれ 人間に光りあれ」(傍線=筆者)と記述しているところです。大正11年3月3日に採択された宣言は「人の世に熱あれ 人間に光あれ」となっていますが、22集は、「光」の後にひらがなの「り」がついているところがいくつかあります。この間違いは、部落解放同盟のホームページや解放出版社の書籍と共通しています。県教委は間違いを認め、今後「訂正する」としています。22集にもとづいて、授業に取り入れたのは同和教育指定校の2校だけで、他校での実践例は今のところありません。部落差別の実態がないなかでの同和教育の押し付けは、教師の日常業務の繁忙さと相まって受け入れられなくなっているのではないでしょうか。

「島根県方針は誤り」―教育現場から批判の声

島根県が同和教育を「基底に据える」路線の再構築をはかる姿勢を強めているのに対し、教育現場ではそれに対する批判の声が強く、持ち込めない実態も生まれています。
今年2月上旬、島根県高校教育研究集会(公立高教組主催)が開催されました。そこで発表されたある県立高校教諭のレポートの内容を紹介します。
同校は、3年前に校内組織体制を見直し、「人権・同和教育部」を廃止し生徒部の中のひとつの係にし、かつて樹立していた「人権・同和教育全体計画」は廃止しました。2006年度は県高校同和教育研究会大会の分科会発表があたったため、人権・同和教育推進体制の強化方向が生徒部から提案されましたが、議論を通じて、「人権・同和教育目標」をたてることを中止しました。そして、「同和教育」という観点から目標をたてたり、活動を点検することをやめ、文書の中にも「同和」「差別」という語句をつとめて使わないようにしたようです。
教諭は、@2001年度をもって同和対策の特別事業は終了した中で、同和教育という特別教育を続ける根拠がない、A文部科学省は「『同和教育』という特別な概念や指針は存在しない」と明言している、B県教委の「同和教育を学校教育の基底に据える」というのは誤った考えである。あえて基底という言い方をするなら日本国憲法と教育基本法にもとづく教育だ、C3年前に本校で廃止されたのに流れに逆らう―などと指摘し、現場での論議をリードしました。職員会議でも異論はなく、決定されました。
これは、道理に満ちた勇気ある取り組みだと思いました。そして、島根県の「同和教育を基底に据える」路線の行き詰まりが如実に現れた場面でもあります。

同和行政、同和教育の完全終結こそ解決への道

島根県の事業終結の動きにあわせ県庁所在都市の松江市では、2007年以降の同和対策事業は終了し、一般対策へ移行することを表明しました。
島根での全解連運動の発祥の地・大田市では、同和対策事業の終結、固定資産税の同和減免の廃止、運動団体への運営費補助金の全廃を表明しています。また、2005年10月の合併を機に行政機構の名称を「人権推進課」にし、同和対策などの名称はいっさい使用していません。同和の名称を使用しないことについては、市民から歓迎されています。
同和行政、同和教育の完全終結こそ同和問題の解決への道です。公正で民主的な社会を築くため、逆流を許さず、県民世論の強固なネットワークを求めて頑張ります。         (かたよせ なおゆき)

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